アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年6月の日記 ~イギリス旅行、無条件の愛のテスト、ステップアップ

 

・いろいろな世界線にいた自分が一堂に会して収束したような、そんな旅行だった。

本当に、夢の中のような、夢でみた瞬間がぴたっと一致するような、デジャヴとも違う不思議な感覚、心地よさ。冷たく澄んだ空気、青空と木漏れ日、鳥のさえずりと薔薇の香り。どの道も、どんなに歩き疲れても、あなたがそばにいて。蝶や鳥の励まし。明晰になった瞬間必ずすぐに見つかる蜘蛛の巣。朝の光線とホテルのグレーのコンクリートの天井、ピンクとクリーム色のバイカラーの壁紙に、深緑のラインが映える。白い光は夕方には黄金色に変わる。ころころとしたかわいらしい雲は、西洋の絵画で見るそのまま。

 

・視覚的な情報を超えて、概念を感じることが多かった。高い鉄骨と行き交う人々。「この駅はこんな機能」そんなふうに認識することで類型化が起きる。「ウラジオストクはしょぼい高田馬場だった」と言った友人はおとめ座おとめ座は分類、組織化、概念のあてはめ、視覚、世界への着地点。未知を既知に変換する機能。神話もこんな感じで語られるのだろうと思った。I analyze. 世界を覚知する瞬間にゲシュタルトが構成される。水星から世界に入る。

 

・今思ったけど、西欧は特に↑の機能が強いのかも?恐怖が強いともいえる。人種を分けてあらかじめイメージをしておくこと、その「型」を相手に押し付けて安心すること。LGBTQとか言って無理に分類しようとするのも、恐怖(異物)に対処しようとした結果な気がする。でもいくらパターンを作成してもそこからはみ出すものが無限に生まれ続ける。そのいたちごっこ自体が「悪魔」という感じがする。恐怖とその対処のための枠組み、制限。逆五芒星や23の数字が表すもの。異界から呼び出す未知と、呼び出して顕現した瞬間にもう型にあてはめられた死物であるということの葛藤。ルシファーとアーリマンは常にセットで「悪魔」。陰陽分けの2と物質界の3・・・

とにかくモーエンさんも書いていたけど、西洋の人は頭までレンガ造りというのは本当だね。そして、「土星を大きくすることで」未知や恐怖に対処しようとする。どんなに大きくしたところで土星土星だから限界があるのに。「外側」が存在する限りワンネスの愛にはたどりつかないのに。そして未知への恐怖は結果的に免疫過剰を招く。

土星を大きくする発想がもろ世界政府だし超監視社会。あらかじめパターン化した異物を学習しておくというのもワクチンの考え方そのもの。

 

・自分が恐怖を喚起する存在だったんだなと感じる。デビッド・リンチ裕木奈江に感じたものを自分の内側に発見する面白さ。日常の中に入り込んだ異物は、意識としては排除しようとするのが自然なわけで、あえてそのままにしておくことはストレスを生む。集合無意識がどうなっているのかは容易に想像がつくように思う。

 

・それから集合無意識自体が抱えているアイデンティティとそのシャドウ。「自分たちは○○であることを誇りに思っている」=○○でないことは許せない、そういう自分ではありたくない!ということ。そこから生じる抗えない嫌悪感。異民族、異文化というものに対してシャドウを感じないわけないんだよな。

だから、差別や争いの悲劇は、この「エゴ=アイデンティティへのこだわりによるシャドウ拒絶の心」と、「異物に対する意識の排除機能・恐怖に対する免疫暴走」の2つの合わせ技で生まれるんだ。

 

・そういう中で少しでも相手に安心感を与えるためには、既知のパターンを演じてあげるのが一番有効。ヤバタンが「典型的な」白人のオーバーリアクションをするのも同じことだし。安心=人気につながる、月欠損の話。。外国でウケの良い日本人もそういうこと。型が決まらないと売れない、という土星のトランジットの話にも。わかりにくいもの=未知、は大衆には排除される。

 

・異物感というのは語る/語られるためにも重要なファクターだと思った。はじめからそこにあるものはそもそも認識されない。持っていなかったもの、失い忘れ去ったもの・・・そういうものを異物として認識するからこそ語ることができるようになる。輪郭を切り取ることができる。1が2になった意味。

 

・無条件の愛を実践するという意味でも、まさかの裕木奈江追体験だった。アランプライスの生き方はやっぱり好きだ。とても高次元的に感じるし、本当に面白い。好きだ。何を言っているのかほとんどわからないのに、まるでセピア色のフィルムが上映されるみたいに、何か情景が心に浮かんで、若い頃のアランさんがそこにいる。引き込まれた。一生に一度でいいからあの語りを聴きたいと思っていた夢が叶った。もちろん演奏もだけど。楽しそうな姿を見れてよかった。。大音量の音楽の圧力はわたしのエゴを隅々までクラッシュしつくす儀式のようだった。

 

・「自由で独立した相手の存在を完全に受け入れ愛しています。」そう思えるようになって大きく変わった。その人の世界で、その人の感じ方によって、その人の反応が生じているだけ。

愛の泉はずっと定位置にあって、誰かに備え付けられているものでもなければ、毒水になってしまうものでもない。そのことを腹の底からわかったら、何かが大きく変化した。

 

・レールをすごい勢いで敷いていくグルミットのように、毎瞬間を創造している。天との共同想像はまさにダンス。リードしてもらっている。感謝であふれる。自覚を持って、愛をもって、これからも一緒に、共に踊っていたい。

 

・かなり疲れていても明晰でいられることがわかった。

 

・天秤座のバランスを意識した結果、完全なバランスという概念は不可能とわかる。「それならばむしろ牡羊座でいけ」というのはヘリオとしてもそうだし、わたしの「美意識」が「木漏れ日にある」というところから、わたし木漏れ日になる=まさに牡羊座7度のシンボル。美と調和を体現しよう。

 

・火星の蟹座の共鳴はエゴよりずっと大きなところで起きる。体の外側、周縁で、半ば無自覚に発生している感じがした。

 

・瞑想というものによくわからないコンプレックスがあったのと同じように、エキゾチックやカオスを体験するという意味での「バックパッカー」的な旅にもコンプレックスがあった。けど、自分にもその体験が必要だという考え自体が思い込みだった。

 

・地球に来たのは美を知るためだったけど、人類をやってみることにした理由は人間に関心が持てないからだったらしい。人間存在の美しさを知り、愛を深めようと思って人間の輪廻(?)に入ったということ・・・?真面目かよww 万物に関心を持たなければ!愛し祝福を贈らなければ!という変な義務感があるのはこれのせい?というか昔からそうだったということ?まだわからない。でも関心のないものには関心がなくていいのだ、ということも今回学ぶべきことのひとつな気がする。

 

・水鳥のつくる水紋を見て、人間の在り方も同じだなあと感じる。ただ生きているだけで広がっていく水紋。

 

・物事だけでなく対人でも明晰の感覚が重要だというのは以前も書いたけど、そこからさらに進んだ。わたしはその他人の世界の「物語」に対して、「知覚者」として受け入れることが必要なんだ!他人の世界の中で語られる他人の物語に、「解釈者」は口を挟まない。最低限の翻訳しかしない。重要なこと(わたしが習得すべきこと)はヘミシンクでもコミュニケーションでも同じだった…

 

・人の素敵なところを文章にして褒めるということをしていたら、すべての人たちに対して「あなたは完全です!!存在しているだけで素晴らしいのです!!!」という気持ちになったww そういうエネルギーを常に目の前にいる人に投げかけ続けることができたら、それこそヒーラーのひとつの形かもしれない。

これまで、「人類意識」になることはあったし、人類ならきっと大丈夫という信頼感とか、博愛・感謝は持っていたけど、「存在しているだけで最高なんだよ!!」「めっちゃすごいよ!!!」みたいな感覚は初めてだ。感謝のもう一段階上という感じもする。無条件の感謝、賛美、愛。

 

・このマンデラ改変でずっと疑問だったことがついに解決した!【現象化=今ここ】には、過去は本当に存在しないんだ!

世界線というものが過去の積み重ねでできているとずっと思っていたけど、それが間違いだった。「法」とか「ダルマ」というものがわかっていなかったのと表裏だった。「法」というものが存在する場はどこか別にあって、そこから情報を引き出すようにして今この瞬間の現象界が作られる。で、多分この、「法」から「物」にするプロセスの部分が壊れて(?)いる、その部分にパラサイトか何かわからないけど、妙な介入がある。でもたぶん、「法」自体は損なわれることなくどこかにあるんじゃないか・・・と思いたいw

とにかく、「法」はどこかの世界の過去にあるわけではなくて、そもそも過去は存在しないのだと、よくわかった。

 

・「法」という考え方をしたら、意図・動機がすべてであり細かい部分は神さまにお委ねするということの大切さもより深く理解できる。利他や愛、美といった目的を持つ「法」を、その都度現象界で生成しなおす=最適な形に自動調整される→これが「パラレルシフト」にもつながっていくのでは?

逆に「法」を全く意識せずにひたすら物質支配にこだわる場合、それはパラレルに持ち越されないんじゃないか。

 

・自分の大アルカナ考察を読み返して、【正義】のカードがまさに「法」のことを言っていてハッとした。「これまでの選択の結果、今がある」。当時芹沢さんに「選ぶかどうかはともかく見る」と言われたことや、パラレルセルフのこともわかってきた。

 

・月の自動思考のパターンで「あのときもっとこう言っていたら・・・」とかありがちだったけど、そんな会話パターンのささいな違いなんて(「法」のレベルじゃない場合は特に)いくつもあるパラレルにいくらでも存在してるしな・・・という気持ちになった。

 

・一卵性双生児は経験による知恵をシェアできるから得だよね~という発言をきいて、パラレルセルフにアクセスしているのってそれみたいな感じだなと思った。夢での体験も。

 

・改めて「意図と行動を一致させること」の重要性を実感してる。そして、タロットとかより先に本来するべきことは、深呼吸して目を閉じて、世界そのものを生んでいると思いだすこと。感じること。意図の方向に世界がつくられていく。

 

・「魔術」という言葉はまだ苦手だけど、タロットその他のことを考えてみると(大我にとって当然のことでも)小我が「感嘆」するところに意味がある気がした。新たな叡智を流し込む感覚も。

 

・わたしには恥の感情が強くあると知って、いろいろ考えてみたら、甘えることや受け取ること、純真であること、子供らしくあることを強く否定しているせいだとわかった。恥を感じることすらも恥ずかしいので、怒りで覆い隠していた。甘えたい自分、純粋で幼い自分を徹底的に締め出していた。そしてそういう自分(隠したもの)をさらけだせる場所が欲しいから、月=帰る場所が必要という発想にもなってた。そもそも隠したり武装したりする必要が本当にあるのか?と指摘されるまで気づかなかった。

 

・月は安心でありホラー。偽物の、切り離されたフィルム、都合よく編集され不完全な中でリピートされる仮想世界。元のオリジナルから分化されちぎられ隔絶されている、衛星。

 

・お風呂の中や寝るときに、ブログに書けそうな文章や、誰かに考察したことを解説しているような語りが延々と流れることがあるけど、それも一種の自動思考ライドじゃんと気づいてちょっとへこんだ。二念を継ぐありさまは、ラジオやテレビのように。

 

・均衡感覚が明晰の入り口というのを再確認する。やっぱり天王星海王星やぎ座と関係あるのか?

2023年5月の日記 ~月欠損論の衝撃と納得、名優は月を使わない

・自己観察により行動動機が罪悪感になっていることに気が付いた一件。恐怖の引力の強さに改めて驚く。

 

・他人に自らの傷を投影し癒そうとするタイプの人。こういう人と関わると、「自分のものではない傷を演じさせられる」ことになるという新たな発見!

逆に言えば、わたしがそうやって(投影して)誰かと関わると誰かに傷を負わせてしまうということ。誰も幸せにならない。偽りの共鳴では癒されない。結局支配欲でしかない。

 

・月は「求めてやまないのに一生得られないものを表す」という月欠損論、とても納得した。蟹座=コミュニティへの帰属感。。本来わたしは蟹座であるという不十分な自己認識により、やりたいことの方向性が全部月に向いてしまっていた。子育て、養育というのもそうだし、村やシェルターというのもそう。そもそもこれまでの恋愛パターンも、わたしは母性に溢れているハズだという自己認識が苦しみの元凶だったんだ。

月がドミサイルなのになぜいつも壊れてしまうのかということで、火星がそこにあるからかと思ってたけど違ったんだね・・・火星ごめん・・・。むしろ火星が壊す方向に動いてくれてたおかげでわたしは月に完全に囚われてしまうことなく済んだのかもしれない。月はシャドウ、どんなに追い求めても本質にたどりつくことはないんだ。

 

・シェルターや養育という概念から自由になっていいんだ!と思ったら、一気に霧が晴れたよう!ますますフラットになって方向性を失ってしまったけどww 多分これでようやくゼロポイントに来た気がする。

「婚活」もそういう意味で、しない方が自分のためにも世界のためにも(笑)なると思った。月蟹座を満たすのは自己満足で完結すれば良い(というか、月は本来そういうものだよね)。以前書いたように、推しの曲を聴いて推しと共鳴するだけで十分満たされる。

 

・人生は巡礼や登山のよう。同じところを目指す人々、ペースはそれぞれ。行く先々で助け合う。

 

・最近、もう全部オールオッケーなんだよっていうことの説明がめんどくさくなってしまい、人に言葉を尽くすことを放棄しがちになっていたんだけど、本来そこをがんばることが使命というか課題というか・・・お役目なのかもしれないと思えてきた。

つまり土星うお座は「異質なものを混ぜ合わせる」。異質なままで一体にするということ。これと、知性・論理のてんびん座太陽を共同させる。これまではずっと、【かに座=同質にしていく・共感によるグループ化】か、【さそり座=同化する・させる、力による変質の強制】そのどちらかを目的として、てんびん座を手段に使う感じだった。それこそ気配り(蟹)だったり、説得(蠍)だったり。そこに疲れて、もう理解してもらおうとするのはやめよう、と思っていた、が、そういうことじゃなかった。

うお座=それぞれの固有の世界のまま一体化して光を味わう】ここに向けて太陽を使うよう努力すればよかったんだ。だからたしかに、理解して「もらおう」とするのは誤り。でも言葉を尽くすことすべてを諦める必要もなかった。

オールOKとは、なにも否定することなく、すべて正しいとしたうえで両立させるスタンス。

オールOKを苦労して理解すること自体が土星のひとつのテーマでもあったのかもしれず、そこに至ることができたからこそ、次のステップ=応用としてのクインカンクス。オールOKの福音=ラッパ を自らの知性と論理により吹き伝え、人々の不毛な攻撃性・排他性=タカから、それぞれに内在する真実の光=ヒヨコを守る女になる。。わたしはそれをやりたい。

 

・月欠損論のおかげで月の幻想から目が覚めたけど、そうはいっても最初はいったん月に帰ることがプロセスとしては重要な気がする。それこそインナーチャイルドの発見だし、無意識の意識化。むしろ、そこをきちんと経ていなければ月欠損論のインパクトがないのでは?とすら思う。

 

・同じように、たぶん太陽星座も最終的にはヘリオに向かっていくんだよね。高次元で見たら太陽星座もシャドウという意味。それでもまずはジオを使い込むことが大事なんだ。

 

・「こういう体験をしているならわかるはず」という思い込みがあったことがわかった。実際には、体外離脱をしても明晰夢をみても、すべて脳の現象だと言い張る人たちが存在する。人間の信念はわたしが思っていたよりずっと強固なんだ。マンデラや改変を実感しても、わたしのような世界観を持たないのは当然なんだ。体験と世界観は別。「こういう体験をした人ならこういう世界観で生きているだろう」という推測が間違いだった。

 

・人の悩み相談をじっと聴くのが苦手なのに、そういうカウンセラー的な仕事をすることにやたら囚われていたのも月の欠損=共感力へのこだわりと欠如で説明がつくと気が付いた。

 

・毎度書いているように、重要なことはいつも変わらず、よろこび、明晰さ、愛、受容、強さ、信頼。自己観察の鋳型をタロットで学ぶ…一時的な衝動や過去からの惰性、無意味なこだわり、有害でしかない決めつけ。これらからの脱却の手引きになる。不安からくる衝動や欲望と、本来のひらめき・インスピレーションとを見分け、いかに前者を退けつつ、後者の導きに従うことができるか、というところ。これも愚者の正逆と同じだ。

 

・失敗を嫌う性格のせいで因果を支配しようとしがち。どんな結果も許容し、自分で選択し責任を負うという基本が大切なのに、ついツールがあると頼ってしまう。翻訳アプリのようだと思った。使い方次第。翻訳アプリの方が「正しい」かもしれなくても、自分で一から単語を選び分を考えることで、いつしか生きたままの言語を使うことができるようになるし、そのことでしか得られないよろこびがある。わたしは愛を掴んでいたい。それだけはいつも覚えていよう。

 

・過去生に関するものが今生で登場するのは、俳優の別作品のオマージュがさりげなくあるみたいで楽しい。そもそも俳優だという自覚をすることで作品へのコミットメントが変わる。月のこだわりを捨て改めてフラットになったことで、役柄=器の再構築=サターンリターンのタイミングを実感する。

 

エーテル体について知りたくてあれこれ質問させてもらった結果、わからんという結論ww それでも、肉体とパラレルに考えられる部分と、決定的に違う部分についてはけっこう分かった気がする。

まず、肉体にもあらゆる部位・機能があって、それらを便宜上分類することもできるし、各機関が独立して機能しているようにも見えるけど、全体で一つの肉体を運営(?)している。これはエーテル体も同じことが言えるのかな、と思った。

そして、肉体もエーテル体も活動の拠点だということ。肉体はこの世界を感じるためにこの世界の素材でできていて、その個性はホロスコープによって決まるとのこと。

エーテル体は今生限りのものではなく過去生から共通するものらしい。ということで、映画俳優で例えるなら、【今生の時空に限局されたものとしてのホロスコープ】=【表現としての肉体・感情体】=【役柄】で、そこに【エーテル体】=【俳優の身体】、それを通じて乗っかっている【アストラル体】=【アーキタイプ】=【俳優自身】がいる。役柄を演じることを通じて俳優自身のクセを見つめるみたいなイメージ?(肉体選びの失敗=ミスキャスト、か・・・)

 

・明確なビジョンより印象活動が大事なんだということを思い出させてくれる松村さん。「象徴や概念を象徴や概念のまま認識する能力を発達させる必要がある」。たしかに、記憶に照合して翻訳してるだけだし、翻訳を上手になり過ぎると原典があることをおろそかにしがちなのかも。

 

・向こうからのメッセージに対して、わたしにわかるようにいろんな方法で伝えてほしいと要求するくせに、こちらから表現することを怠っていたと思った。もっと全身でよろこびを表現したり、言葉を口に出したり、ありとあらゆる伝え方を日々試みようと心を改めた…!

 

・愛とよろこびでつながる存在たちとともに、愛とよろこびをもって大いなる・聖なる仕事をしよう。と思ったときに、できれば自分が今何をしていて(するべきで)どこに向かっているのか、それが何のためになるのかを知りたいと思っていたことが恥ずかしいと感じた・・・。どこからか飛んできた綿毛と、カラスを見て。いつ生まれていつ死ぬのか、知っているのか知らずか。ただそのままでいい。生きることが約束したことだ。

 

・無理に引きちぎっても毛根が残ったままだと痛いだけでまた時間が経つと同じものが生えてくる。いつか解決するものなのだ=解決しなければならないものだという認識・こだわり自体に罠があるのかもしれない、と思うようになってきた。

 

・自分のホロスコープの太陽をサビアンで見たとき、守る人という意味で蟹と同じように考えてしまっていたけど、まったく違うのだとわかった。蟹の場合は動機が感情なうえに、内外を分けて外は敵だとみなす。天秤の場合はあくまで対等。「敵」のことも愛している。むしろそのバランス・調和そのものを守るということ。バランス・調和に美を見出す、つくりだす。そのために知恵を使う。感情ではなく。

 

・月は「わたしがやらなきゃ」とエゴの使命感を感じさせる。「わたしの役割」にこだわる。必要とされているという幻想。自分こそそれができるはずだと思い込むのに、最も向いていない(才能を持ち合わせていない)ので葛藤し自己嫌悪に陥る。どうして解決できないのかと自らの無力さばかり考え続けてしまう。

 

・あくまでも月へのこだわりは自分のエゴを満たすためで、自分のその自己イメージがなければ自分が存在できない、愛されない、生きていけないという錯覚からくるもの。

 

・蟹なだけでなくハウス3も欠損ということでとてもハッとした。「優しくて利口なわたし」それが自分だという思い込み。勉強が良くできて、おしゃべりが上手で・・・言葉による表現、自らを発信源とすることへのこだわり。それらは実は7歳レベルで止まっているという衝撃の事実。しかも輝きがないからこそ人を安心させ人気が出るという。道理でTwitterがしんどかったわけだ!!ハウス3そのもののような行為だった。蟹座もハウス3もやり尽くした感があるww

 

・月は何の解決にもならないのに同じことをいつまでも悩ませ続ける。そしてそのことによって本来の太陽のエネルギーがどんどん奪われてしまう。わたしは家のことばかり考えなくてもいいのだ。わたしは他人に贈るメールの文面のことばかり考えなくていいのだ。それが本来得意なはずだと思わなくていいのだ。現象界にとらえさせるのが月の役目。本来の自分とは全く関係がない。その意味で、この世は幻想だと教えてくれるのが月だともいえるらしい。無意識=自動化のシステム。

 

・月は日常性・反復継続という意味で、Twitterも毎日更新が苦しみの元だったし、勉強も日々やるものが一番苦痛、なのにそれが自分の「安全」につながってしまうからやめられない、抜けられない・・・なるほどな。

 

・ハウス3は「自分を理解してもらいたいという願望が出るハウス」ということで、これもあまりにも納得感がある。反対のハウス9「他者の世界をありのまま受け入れる」これが月から抜けるカギだった。

 

・ブログを書いたりして何か発信しなくてはいけないのではないか?どうしたらもっとわたしを人に理解してもらえるだろうか?これらすべてが月の作用でしかなかった。

月が押し付けてくる幻想から逃れると、そのときはじめてエゴの悩みから自由になり、本来の火星かに座が出てくるのかもしれない。納得感を追い求めてするのではなく、ただ結果としてそうなっている。それこそ、神に遣わされたときといえるかも。自分が満たされるかどうかではない、自分ではもしかしたら認識もしない。ただそれが必要とされている気がしてそうする。そこに悩み、不安、葛藤は生じない。どこまでも自然で無理がない。それが月と他の天体との違いなんだろう。

 

・言ってみればたぶん、月だけが大根役者なんだ。一生懸命演じるけどモノになっていかない。

 

・月は「良い夢」を望み、太陽は「明晰夢」をみせる。

 

・太陽と土星クインカンクスのところで「福音のラッパを吹き伝え」と書いたけど、吹き伝える必要はなかったww これもハウス3の欠損によるセルフイメージの誤解だと思う。「自分が主体となって周囲に伝えていくのだ」というのは気負いであり、これは向いていないからやめた方がいいわ。むしろ太陽があるのはハウス5で、本当に自分がただ楽しくやっていれば良い。

わたしがわたしにしかわからないよろこびを追求し、実感し、自然に表現されていく過程で、ラッパは勝手になっているんだ。趣味がラッパで、その意義など知らない。それくらいが良い。一切の気負いは不要、害でしかない。

 

・すべてが素晴らしく、美しく、また調和していて、生きるとは何て幸せなことだろう!この世界はなんて美しいのだろう!すべてはあなたなのだから!

 

・月星座蟹座が被害妄想で疑心暗鬼だというの、情緒の欠損つまり「わたしは愛されていいわけない」というのとつながっていると気づいた。親の愛をなぜそこまでわからなかったのかずっと不思議だったんだけど。感じ取る能力に欠けていたからだったんだ。。。特に7歳以降。

 

・月のセルフイメージを捨てることはすなわち母の期待に応えようとする生き方をやめることでもある。父の期待に応えようとする土星も難儀だったけど、月はそれ以上に外在化しづらくハードに感じた。より根源的な安心感=恐怖感とつながっている。母が大切にしてきた娘像がなくなってしまう、そうするとまるで愛のつながりが断たれてしまうかのように感じる。でも実際はそんなことない。愛を信頼するんだ。エーテルコードの回収。

 

・また象徴夢らしい夢をみた。わたしは後部座席に座っていて、運転手と助手席にいる人がわたしをどこか目的地まで送り届けている。だけどどうやらその二人はわたしが後ろに乗っていることをもう忘れているようで、道に迷い始めた。景色は赤茶けた険しい山々。そこで「おいおい」と思ってわたしが声をかけ、地図を見て、上からの全景を確認するような役割を担っていた。

 

・蟹の愛でなくても愛は間。蟹でなくては届かないという思い込み、恐怖を捨てよう。愛を「わかってもらわないと」「伝えないと」という姿勢も同じく。そうじゃない方法の方が、「今は」よほど豊かに伝えることができる。

2023年4月の日記 ~過去生が具体的に分かったころ。魂の核の個性を知り始める

 

・わたしがこの人を差し上げたいと思えるような相手を選ぼう。本当に好きになれる人、大切にしたいと思う人に出会うまで、この人を大切に磨いておくんだ。そしていつかそのときが来たら、これまでに学んだすべてのことを生かし切る。本当に好きな人にこそ媚びず、支配されない(しない)こと。

 

・宇宙=自分を100%信じ切れていないとき、つまり恐れのあるときのパターンとして、恐れからチャンスに飛び込めない(チャンスなのかどうか確信できず動けない)か、あるいは無鉄砲に飛び込んで自分を粗末にしてしまうという2つがあって、そのどちらもが愚者の逆位置だ。

結局これも例によって、進むかどうかのどちらかに正解はなく、宇宙=自分とつながり、結果がどうなろうと引き受けようという感覚、「こうしたい」と心から思う感覚がすべてなんだ。

 

・ワクに関する考察が飛躍的に進んだ。人類の集合意識の中のやばいもの(ヤマタノオロチ的な)、これをコントロールできないうちは封じ込めておく→囲い込む・閉じ込める=土星=封じること自体が「悪魔」の役割。ゲートキーパーとして長いこと人類が成長するのを待ってくれていた。いよいよ天体イベント(?)が近づいてきたけど、まだ準備ができていない人が圧倒的多数→ワクで「枠」をつくり強化して、「神との繋がり」をむしろ切っておく必要があった、といおうことかも。全滅するくらいなら一部を救う…?

 

・面白い象徴夢をみたので記録。カップルが狭い部屋に住んでいる。ワンルームの壁はベランダ側以外の3面がほとんどDVDで覆いつくされていて、天井までラックがあり詰まっている。シリーズものも多く並んでいて、「スターウォーズ」シリーズのほか、「イーハトーブ」シリーズというのもあった。カップルの二人は引っ越す予定で、DVDはもう全部見たからという理由でほとんどを置いていく(売る?処分する?)ようだった。

 

・おびただしい数の建物を見ながら、いつかはすべてなくなるんだなと感嘆してしまう。ものすごい数の人間も、いつかは一人残らず死ぬということにも。行きかう人々は皆屍になる。

 

・既知のことでも比喩を新しく思いつくと楽しくなる。今の最新版は「人形とそれを動かす手」というもの。それに、改めてルールとゲームという概念の重要性を思う。ゲームを楽しむにはルールが必要で、いったんそこに入り込む不自由さが不可欠だ。

 

・見ている限り変えられない、と以前言われたことに関して、「そうか、自分から目を離すことが瞑想の意味なのか!」と閃いた。「我」を見ている限りは変わらない(変えられない)けど、「我」から離れれば書き換える余地ができる。

 

YouTubeの気功動画と同じからくりで曲からエネルギーが届くのでは?と思った。曲もBGMになっちゃうと効果は限定的で、同じだなと。受け手側が受け取ることを意図してチューニングすれば受け取れるようになってる。お守りとかもそうかも。

 

・本来はネガティブにもチューニングしなければ受け取られないはずだけど、逆に無意識だとポジネガ無分別にうっすらと受け取られるようなパンフォーカス設定になってるから、何かおかしいと思ったら気づくことが重要なんだと思った。レンズに汚れがついてる感じかも?慣れてしまうといつもそこにあるものになるけど、ピンボケであっても汚れは汚れ。特定して取り除く作業はした方が良い。

 

・ヘリオ牡羊座を実感する、エンリルとエンキの話。しかもオズとフィガロだった(笑)二元論で考えるのはもはや趣味のようなもの。どちらも心から愛している。エンリルとエンキの話を深堀したおかげで「ご先祖様」の概念も変わった。先祖霊という言葉に抱いていたイメージが一新された。

何度も「エンリル」「ソドムとゴモラ」ときいて調べたけど、「全滅させるくらいならせめて一部を救う」という話にリンクするのかも。

 

・何かをしなければならないのではなく、何かをしようとしている自分に気づくこと。

知らないけど知っている、迷いのない自由な動きで、神さまを魅了するくらいの力強く美しいダンスを踊りたい。

 

・いろんなチャネリング情報が一見矛盾して感じるのも、車を知らない人に車がどう動いているか説明するという比喩を考えればしっくりくる。ある人は「車は人が動かす」と言い、ある人は燃料について、またある人は機械・メカについて説明するが、どれも正しい。

 

・器の個性と魂の核となる部分の個性の違いのようなものを認識し始めている。今まではまず器と意識を分離させることが先決だったので、自分とは何者かという問いには「透明な、ただの意識だ」という答えで終わっていた。もちろん型にはめて決めつけたくなる衝動には注意が必要だけど、自分(の魂の核)がどういう存在なのかということについてそろそろ考えても良い段階にきているかも。

 

・最近タロットやダウジングを多用しすぎていたと反省したけど、自己の内側に集中する訓練にもなってたなと思った。「本来の答え」(知っているの状態)を引き出しやすくなってきている気がする。とっさの判断はまだうまくできない(特に脳波状態の問題と思うが…)ので、今はちょうど過渡期という感じ。これからももっと日常的なレベルで意識を深めていきたい…。明晰で「いなきゃ」というより、明晰な方が楽しいしよろこびが大きいから、そうありたい。

 

・この器が大切なあまり執着し恐怖が大きくなっていた。支配欲を手放すと質問はほとんど浮かばなくなる。なんとかなる(なんとでもできる)という信頼感で満たされる。気負いが消えていく。瞬間瞬間、夢をみているだけのGroovy Times。Letting Go。

 

 

ついにマンデラエフェクト(?)の謎が解けた!!!

 

先に結論だけ書きます。

・この世界に「過去」は存在しない。今この瞬間、毎瞬間1から作り上げられている。

・世界を作り上げるプロセス(カルマの具象化)の部分に、なにか高次元の介入がある。人類ではない何か意図を持ったものの介入。

・物質だけでなく、記憶も今この瞬間に生成されている。だからマンデラーと非マンデラーの違いは、今ここで生成されている記憶が違うだけ。

 

 

去年この記事を書いてから1年が経過した。

alkes.hatenablog.com

 

起きている現象をマンデラ効果と呼んでいいのか未だによくわからない。

毎日毎日、ちょっとずつ服のボタンの位置がずれていく。

十字架のネックレスの横棒が短くなったり。

そうかと思うと、「いや全然違うんだが!?」という柄になっていたりもする。

「こんなデザインのもの買わないよ!!勝手に変えんなよ!!」ブチギレ

 

だから 「マンエフェ(?)」 と書いている。

 

この現象に気が付き始めてから2年くらい。今もまだまだ加速中。最近またすごい。

 

イラストはAIが描いたかのような、どこか違和感のある絵に少しずつ変化していく。

アジサイだと思っていたイラストが刻々と変化して、ついにブーケになった・・・。ださい

 

慣れたとはいえやっぱりこのAI趣味は感情的に受け入れられないものがある。

(同じ認識の人いませんか????)

 

何の意味もないところにタグがもうひとつ出現したり。

好きな音楽のキラキラした部分の音量が小さくなったり。

やっぱり、こんなミキシングをする人が過去に存在したとは思えない。

人間はそんなに馬鹿じゃないよ。

人間のセンスはもっと良いよ。

 

ずっとそう思って、パラレルワールド説には納得できなかった。

並行世界がいくら無数にあるからといっても、そんな「過去」のある世界、あり得ないでしょってことが多すぎる。

 

そして納得いかないまま月日が経ち、いよいよ重大なことが判明した。

 

そもそもこの世界に「過去」は存在しない!!!!

 

本当に存在しないんだ。

 

というわけで、

そもそも「世界線」「パラレルワールド」というもの自体の、私の認識が間違っていた。

違う時系列をたどった世界が別個に存在するというわけじゃないんだ!!

世界が「過去」の積み重ねによってできていると思っていたことが間違いだったんだ!!

 

じゃあなぜ「過去」があるような気がするのだろう?

その答えは「カルマ」や「ダルマ」という概念にありそうだ。

 

今この世界を作り上げているのは「過去」ではなく「業」と「法」。

「カルマ」と「ダルマ」。

(その二つの概念の違いを整理できるほどの知識はないので、とりあえずひとまとめにさせてもらいます・・・すみません。文脈からそれっぽい概念としてとらえてください。)

 

種を蒔くと、「種を蒔いた」という「業」「法」が生まれる。

それがどこかの高次元に記録される。

記録されたそれは変えられない。

 

これを私たちは因果として認識し、種を蒔いたら実がなる、と学習する。

これが時の流れに乗っかっているので、原因と過去を結びつけて混同してしまう。

ずっとそうやって勘違いを続けてしまう。

 

しかしこれは全く別のものなんだ・・・!!!

 

存在しているのは常に、今この瞬間しかない。

 

今この瞬間、世界がゼロから作り上げられ、また次の瞬間ゼロになって、

また作り上げられて、、、ということが無限に繰り返されている。

 

無数にある「業」「法」をもとに、現象界にその都度引き出してくるようにして世界が作られる。

概念を物質化する作業が毎瞬間おこなわれる。

世界を作り上げるそのプロセスは振動数が高いので、人類はその瞬間は眠っている。

そうすると人類にとっては、パラパラ漫画のようにこの世界が連続体として感じられる。

 

「部屋にある茶色い机」という概念があったら、それが毎瞬間意識に読み込まれて、毎瞬間そこに生成されている。

もっと言えば「木を切って机の形にした」「この人がそれを買った」「ここに設置した」そういう「業」「法」の集合体。これが現象界に反映される。

 

「過去」があるから「今」があるわけじゃない。

 

つまり、「今」を作るために時間の流れは必要ない!!

 

だから、いわゆるマンデラエフェクトで歴史が書き換わっているような派手なパターンは、

この「業」「法」の部分を書き換えているということになるのだと思う。

 

そういういわゆる派手なマンエフェはパラレルワールド説でも説明がつくのだけど、

わたしが言い続けている「物質から霊性が失われている」という現象について、私が一貫して言いたいのは、

「別の世界だとしても、そんな過去が存在するわけがないだろ!?」ということに尽きる。

これが本当に不快なんだ。

霊性が失われていると感じることについてはこちら↓)

alkes.hatenablog.com

 

↑の記事と結論的には変わらないのだけど、

「業」「法」の概念で考えてみれば、ここでひとつの大きな仮説が成り立つ。

 

「業」「法」から「物質」に引き出してくる過程の部分に何かが起きてしまっているのでは。

 

「机という概念」 → (法を引き出してきて現象界に作り上げるプロセス) → 物質としての机

 

この、↑具現化プロセスの部分に、

太陽系外の意識体が巣食ってしまっているということではないか??

人類のカルマなのに、人類ではないものの介入がある。そんな感じがする。

それで、「霊性が失われている」という話になる。

「物質の波動が低くなった」「感動が起きなくなった」というのも同じこと。

なにか心を震わすような「業」「法」があったのに、肝心の心を震わせる部分を物質界に引き下ろせなくなっている。そういうことじゃないかな。

そうだとすればこの奇妙な現象にも説明がつくような気がするんだ。

 

毎瞬間物質化するたびに、微妙に壊れていく。だから「少しずつ変わっていく」ように見える・・・?

エラー、バグの多発。潜在意識のAI化。

 

奇妙なオリジナリティあるデザインが出現したりもするから、もはやプロセスじゃなくて「業」「法」そのものの意図的な書き換えってところもある気がするけど・・・うーん。やっぱり合わせ技な気がするんだよね。

 

それから、マンデラーが少ない理由について。

 

私たちは過去を思い出すと、過去が「あった」と錯覚してしまう。

でも本当は「思い出す」という過程で、今この瞬間その「過去」が生成されているだけ。

目の前に広がる物質的なものに限らず、個人の記憶の中身すらも「業」「法」から今この瞬間に生成されている。

「今」につじつまの合う記憶が、どこかから引き出されている!!

 

つまり、マンエフェがわからない人は、記憶を引き出す場所がマンデラーとは違うってことだ。

「もともとその世界線にいた住人」というわけじゃない。

生成されている過去記憶が、今ここにある意識にとってつじつまの合うものになっているだけ。

 

「業」「法」の引き出し方に違いが生まれる理由は、シンプルに、

現状その人の人生を送るのにどちらの方が都合が良いか、というだけな気がする。

以前はNPC説も真剣に考えていたけど、違う気がしてきた。

マンデラー同士で違う記憶を持つことも、これで説明がつくよね。

 

 

2023年2月と3月の日記 ~クジラの骨笛の回収、エゴの穴づくり、n回目の明晰

 

・自分に約束した通りに生きよう。恐怖から逃げることが最も恐ろしいことだ。どんなことが起きようと、自分との約束を破るよりも悪いことはない。

 

・まだまだ焦ってしまう…けどカンペキネスを一旦思い出せば焦りは起きなくなる。「自分にとっての最高の物語」を知っている状態。いつもそうありたい。自分の人生も他人の人生も、あらゆるプロセスを信頼すること。ひとつひとつが理解できなくても、つながっていることをただ「知る」こと。Believe in Magic。

 

・部屋に入ってきたエナガを逃がしてしまう夢。潜在意識ではまだ自分がそれほど多くの幸運を受け取って良い存在だと認め切れていないみたい。奇跡のような現実をひとつずつ、少しずつ受け入れていくことで癒されていくのだろう。そして自分が愛とよろこびをもって行為する、そういう自分を信じていること。罪悪感を癒すのもすべては信頼だ。

 

・すべての行動の原則を愛とよろこびにしよう。そうしたい。生きているだけで周りが本質を取り戻し活性化するような、澄み切った美しい噴水のような最高のヒーラーになる。それはそれ自体を狙って目指すのではなくて、いつも明晰なサットヴァであること、よろこびの人でいることの結果としてそうなるに過ぎない。

 

・自分の中で「恋愛とはこういうもの」と決めつけているパターンに、自分が「素の状態」でいることが相容れなかったんだとわかった。愛することは媚びること、自分を消して相手の欲望を満たすことだとさえ思っていたんだ。これもまた夢が、まったく新しい恋愛の形を教えようとしてくれている。「知っているパターンと違う」という理由で受け入れようとしてこなかっただけだ。あとはわたしが心を開くだけ。自分のままでいることと、「愛している」状態が一致する感覚を初めてつかんだ。相手がそこにいることを心の底から受け入れているというような。ナッツの香り、昼の空に浮かぶ月、ウールのおくるみ。

 

・血みどろの泥仕合からいかに身を引くかの練習再び。そういうときってエゴの危機だから、エゴが過剰に武装するんだな。そして特に、月を投影している相手に起きやすい。エゴ=地球なので、その周りをまわっている月が地球の思い通りでないと許せなくなる。というわけで、月側の立場、干渉される側の立場に立ってみると改めて、自分が干渉する側になってしまうことのないよう気を付けよう…と思った。勝手な共感や過去の投影は迷惑でしかない。自分が以前クリアしたゲームのステージに似ていても、他人のゲームは自分とは全く違うものなのだから。

 

・「自分を大切にする」とか「自分軸を持つ」とかの概念がいつのまにかただ「我を強める」ことにすり替わっている事例を見ると、反面教師にするしかないと切なくなる。我が強いと結果的に我を押し通すし、人にも我を押し付けるし、なにも良いことがない、最悪だ。わたしは我を手放し煮干しモードでありたい。見下されようが何だろうが、相手の中のセルフイメージなど変えられるものでもないしね、ただ受け流すだけ。(その人はそうやってかろうじて我を保っているんだ、と後で気づいたw わたしはその人自身が自身にそうあることを許していないシャドウを演じていたんだね(後述))

 

・今ここに集中しながら次の瞬間を創造し続ける明晰の感覚を、もっと未来の計画を立てたり思考を巡らせている時にも持ち続けていたい。まだ難しいと感じるけど、先生は意図するだけで簡単なことだという。意図してみたことがないだけだよ、と。

そういうわけで意識したら少しずつできるようになってきたかも。むしろ発想が逆で、「思考によって今この瞬間がよろこびに満ちる」、それが本来の思考の使い方なんだ。(よろこびはポジネガを超越したもの。)逆にそうでない思考はすべて不要なエゴの思考。。

 

・Travel light = 自分にとって本当に必要なものだけを残し、あとは手放す。明晰な意識と愛、よろこび、安心と高揚、世界=最愛のひと、未知と好奇心、列車と車窓と風景、口づけ。どこにでも持ち運べて足場になる、テントセットのようなもの、つまり人間力としての土星、シェルター。それさえあれば必要なものは何もない。不安も焦りも重いだけの不要物。後悔はピンク色の飴玉で溶かす。

 

・わたしの中に強い禁止があるからこそ他人に干渉すると気づいた。これまでは、「嫌いな人」が自分のシャドウだととらえていたけど、イライラして干渉してしまう(コントロールしようとしてしまう)相手も実は同じシャドウで、「自分自身がそうあることを許していない」ということなんだ。「自分だったらこうするのに」というのはつまり、「自分がそうできないことは許さない」ということ。許せていない、そこにルールが存在していることに気が付くまで物事は繰り返し起こり続ける。「相手=自分」に対して、それでもいいんだよ、と受け入れたら、すべてが変わった。

 

・たとえば、わたしはネガティブな感情を表出して人を巻き込むことを憎んでいて、自分がそうなってはいけないと強く禁止した。そのため、感情表現自体を抑えがちだし、つい表現をしてしまうと罪悪感があった。だから人が感情を表現することはなおさら許せなくてイライラした。他人を許す前にまず自分がそうあることを許す。

感情表現を恐れる必要はない。罪悪感なんか感じなくて良い。海の愛を(自分を含めた)すべての人に。海の愛は海だから、何の影響も受けないのだ。ただそこで見ていて I know と言ってくれる先生のように。わたしは透き通っている。わたしは「大丈夫だと知って」いる。受け流し浄化する。あらゆる在り方をすべて受け入れてから、改めて選択すればよいのだ。完全な自由と許しの上での行動選択。(「自分ならこうする」というのはその最後にある。)

 

・感情を感じ切って浄化する必要があったのは他でもないわたしだった。。傷への恐怖と、無力な悲しみ。ひたすらに無力である悲しみ。。あまりに悲しく苦しいため、それを覆い隠そうとする支配欲、怒り、攻撃、否定。感情を全身で(赤ん坊のように)感じると、たしかに形容できない体感に変化していった。胃のあたりの不快感とか。そこまで来たら、あとはイメージングで浄化し癒していく。

 

メタトロンをやったら予想通り尿管や子宮壁で炎症が起きていて、イナ・シガールの本で「炎症」の項を見ると、「いらだち、内なる葛藤。挑発的な態度。目の前で起こっている不正への怒り。人が自分を支配・管理することを許してしまうこと。自分を傷つけるような言動」とある。。

メタトロンの感情のところに「義憤」が出たのが意外だったんだけど、↑の「不正への怒り」と一致してることに驚いた。むしろその感情を自覚的に感じられていないことが問題なのかもしれない。本当はワクやらコオロギやらなにもかもに対して怒っているのに、どうにもできない無力感がつらいせいで最初からフタをしてしまっている気がする。

 

・電車の車窓が少し開いていた。ガラス越しとは全く違う感動がある。同じ青空でも、ただのコンクリートの構造物でも。明晰夢と同じだ、と思った。何を見ているかに関係なくよろこびがある。

苦しみが入ってき続けたからあるときからガラスで仕切ってしまったんだ。トンネルの中ではガラスに内側が映るのも示唆深い。今、また窓を開けよう。どんな景色もすべて美しいから。ポジネガを超えてすべてを眺めていたい。どこまでも旅を楽しもう。

 

・ここにいたくているということをまた別の角度から改めて実感した。意識状態一つでここも霊界も本当に何の差もない。内側の真実として、ここにいること自体に満たされている。そして奉仕のよろこびを感じる。何も言わず微笑んでいる先生たちのように、わたしも「ここで」今そういう存在になれる(なっている)んだ。

 

・起きることはすべて必要な体験であり、すべてはレスポンスに尽きる。

 

・いかに真我の状態にアクセスするかということだけが重要で、アストラルがどんな状態か(機嫌が良いかどうか、穏やかかどうかなど)は大した問題ではない。エゴの表面にたくさん穴を開けておくことで真我へのアクセスルートが作れる。エゴの表面上で思考がぐるぐるしたときその穴に引っかかったら真我を思い出しやすくなる。そういうトリガーを設置しておく。

 

・なにかを「する」のではなく「起こす」。ふたつの目を大きく見開いて、ただゆっくりと呼吸するだけで、すべてはうまく運んでいく。

今までよく先生に「でも、いったいどうやって?具体的には何をすれば?」と尋ねていたけど、ただそう「意図すればよい」だけだとようやく真に理解した。

 

2023年1月の日記 ~『チャクラヒーリング』やスペザーノ博士の本の読書記録ほか

 

・わたしがこれから出会う誰かの人生の中に、わたしが登場することになっている…という考えが妙に気に入った。夢でときどき顔を合わせるアーキタイプに対して、やっぱりどこかのタイミングで出会うのだろうか、と思う。

 

・先生の「声」がどんな形でやってきても受け取れるように直感を磨こう。「気が変わった」ら素直に従えるようになろう。

 

・忙しくタスクを処理しながらも、どこかでまだらにでも「動いている自分」を感じている心があった。以前よりのめりこみ度が軽減されているかもしれない。引き続き動きながらサットヴァを目指す。【世界】のダンサーになる。

 

・「愛を投げかける」スキル練習。自分の「外側」のエネルギーを取り入れて使う、と思いすぎていて、かえって空回りしていた。先生やバラの花びらに触れたいと思う時の、「内側」から湧き出る感覚こそが無限の愛なんだと気が付いた。自分が与えることで流れ込んでくるというか…結局、愛の感覚にアクセスさえできればあとは問題ないのかも。

「投げかける」というイメージもなかなかできていなかったんだけど、内側から湧く感覚を得てからは、白い光のカーテンのような、オーロラのようなものを幾重にも層にしてかけていくようなイメージが現れた。あとで振り返れば、「愛はドライヤーではなく空気」「ぱくぱくわっかを出す人になりたい」と書いてきたことに一致しているとわかる…(他人の描写したイメージ、ビームとか…に引っ張られてたんだな;)

 

・ルートチャクラのヒーリングワークで、地球とつながる=グラウンディングに抵抗があることを認めた。なぜなのか探っていくと意外な…というより、根深い事実に突き当たった。「一度そこに根を張りつながると、もう離れられないのではないか」という不自由さへの恐怖と、その恐怖を感じることや離れたいと思うことそのものへの罪悪感。つまり重力への恐怖と、愛しているのに傷つけなければ生きていけないという恐怖、自己否定。。

松村さんもきっと無自覚に地球や月を恐れているのでは?そこにフォーカスしたら出られなくなるという思い込みが幼少期から連綿と続いている。

ちゃんと根を張っても、いつでも出られていつでも帰ってこれるのだ。月はいつも共にあって、どこに運んでも安心をくれる。海の愛を、地球はわたしたちに持っているんだから。意図して居を構える、Roost。

 

・わたしは自分に「ある特定のよろこび」を感じることを禁じていたことがわかった。わたしはわたしの好きなものが何をもたらすのかをずっと恐れていた。青白い光、と呼んで怯えていたものが、第5チャクラの色だと気づいた時の衝撃!!ここにきて自分の原点にまた戻ってきた感じがする。

 

・外出すると松村さんが言うようにどこも同じ場所、見たことのある景色に感じるけど、その感覚が進んでいるのはこの一連の改変のせいもあるかも。いろんな絵に同じ傾向を持たせるのと同じ。「土星は型押しスタンプ」というし、結局サタンということなのか…。

 

・ものすごい数の人工衛星がここ1~2年?で打ち上げられているらしいけど、そのことについてふと、地球の「月」を増やす…「地球の土星化」??と考えた。これ以上分割しない4つの元素のところまできて、そこには入り込まない(対象化するのみで、先には進まない)はずだったのに、その先に進もうとしているのかな、なんて漠然と思う。メタバースとかそうだよね。

 

・「わたしたちは皆成長の過程において異なった地点にいる」ということは以前からよく承知していたつもりだったけど、いま改めて思うと「無時間」のレベルではすべての人が完成まで到達している、そのプロセスが組み込まれた種なのだから、そもそも前後関係すら存在しないんじゃん、としみじみ。

 

・幼少期の自分に遡ってヒーリングするワークをしてみて、前よりも愛が深まっていると思った。当時抱えていた喪失感と不安もよく理解した。見えなくなってしまった、わたしの「ジョンジョーンズ」…また会えたよ、ずっとそこにいてくれたんだよ、もう大丈夫だよ、と今なら伝えられる。そして、泥水のようなその環境も、愛しいこの人をつくりあげてくれた愛しいところとして、すべて受け入れられるようになった。

 

・解釈者としてのこの人をできるだけおとなしく隅において、できるだけ美しい静かな湖面にしたい。同時通訳をするべき存在が自分の意見を勝手にさしはさんで、その間の情報が何も訳せないみたいな感じだなと思うww 知覚したまま正確に伝える(意識にもたらす)と心がけよう。。

 

・自分が恋愛の高揚感と罪悪感をセットにして、自分に対し恋愛を禁じたから、夢もそういう形をとって現れてくるんだ。浮気だったり不倫だったり。解放されよう。

 

・推しという器に執着することでいろいろな機会を遠ざけていたこともわかった。特に、器や様式を手放すことは、それによって愛を感じる力を失ってしまうのではないかと怖かった。その恐れを手放す。自分でも薄々気づいていた通り、新しい出会いが入る余地をあえてなくしていたんだなということもわかった。

 

・「間違いを正そうとして何度も転生してきた」と書いていたことを思い出す。自分にこう伝えよう。

「あなたは何かをする必要はない。あなたが他人の傷を見ている限り、あなたもその人も癒されることはない。傷を治すのは本人であり、あなたは何もしない。あなたはただあなたを生きればよい。そうしなくちゃならない。そのことが、たとえ見た目の上では他人の傷を悪化させているように見えても、あなたにはっきりとした愛がある限り、歩みを止めてはいけない。それはすべての人にとっての癒しのプロセスになる。わたしはわたしの生きた道のすべてを愛している。あなたは許されている。だからどうか、支配されてくれるな。支配・被支配では痛みをごまかすだけで、誰も幸せにならない。」

 

・エンパス問題も金の玉問題も結局は、それらを言い訳にして自分が直面すべき人生の課題から逃げていただけだ。自分の本当の姿が浮かび上がってくることを恐れた。でも今はむしろ、わたしの知らないわたしに出会えるのが楽しみだ。自由な本当のわたしを見てみよう。わたしはまだわたしのことを何も知らない!

 

・内惑星の限定された空想より、全惑星のダイナミックな体験で成長したい。

 

・結局すべてのカギを握るのは自己観察だ。好んでよろこんでしていた行為や役割が固定化されルールとして死んで来たときに気づけるかどうかも自己観察だし、自らの欲求のフォーカスしすぎて苦しみが生まれたときも、それを空想で慰めるのではなく(!)自己観察によってサットヴァを取り戻すことが大事だ。自分の欲求も所詮はアストラルレベルで、そのすべてに対応する必要はないから。「大切なのは、光の枝を掴んであたたかい光で自身を満たすこと。」

 

・そしてもうひとつ中心的なテーマは、支配欲とその根底にある失う恐怖、それを手放すこと。宝物に執着して、失うことを恐れるあまり、まったく無意識に支配的になってしまう。それは全く支配には見えない形でも起こる。わたしを拒絶させ傷つけるように仕向けたりする。あるいはわたしを征服させたりする。それらはすべてわたしの内側にある恐れと支配欲が現象として出てきたもの。獣性にとりこまれず、純粋に与えたい火星♂を自らの内に見出せば、外界にも現れるのかもしれない。

 

・夢でわかったことは、わたしは全く与えようとしておらず、「欲しい」としか思っていなかったということ。仮に与えるにしても、それは「もらうために与える」対価であって、「くれるからくっついてまわっている」というひどい状態だった。わたしは心から与え合える関係を新しく作りたい。もらうために与えるのではなく、与えたいから与え、よろこんで受け取る。

与えるとはつまり、「自分の魂をかかわらせる」こと。

 

・安心と高揚を「くれる」人、を望んでいたけど、これも誤り。安心はもらうものではなく自分で「つくる」もの。そして高揚も、もらうものではなく自分が「感じる」もの。よろこばせてもらおうとするのではなく、自分がよろこぶ意志をもつこと。そして自分がよろこびを作り出すことで、よろこびを無尽蔵に与えることも叶う。

 

・目的も意味も必要なく、ただひたすらに高揚する、移り変わり続ける世界を味わう、明晰夢の感覚。その状態で散歩するとき、「概念」を五感で眺めているような感じがした。わたしはただ世界を垣間見ている。旅先の夜のような気分で、まっさらな未来を想う。

 

・性的なトラウマすら自分の支配欲が原因となっていたことがわかった…自分の支配力が及んでいることを確認する(惹きつける)=無自覚に「もらおう」とすること。相手を獣のようにわざと扱い、貶める態度。

支配欲を手放せば惹きつける必要がなくなり、つまり「媚びる」ことがなく、自分であり続けることができる。結局は自己価値への絶対的な信頼と、相手の自由を許すこと(=相手を信頼すること)に終始する。そのままの自分であり続ける勇気をもつこと。

 

・わたしはわたし自身のことを何一つ決めつけてはいけない。わたしが何を人に与えられるのかをわたしは決めない。わたしにどれほどの可能性があるか、わたしは知らない。

 

・相手の欲求に寄り添うフリ(=支配されてあげること)は相手のためにならないし(成長の機会を覆い隠す)、相手に対して失礼でもある。へたに希望を持たせないこと。

 

・メンタル体が不在になったただのアストラル体は残りかすであり、死体と同じ。パラレルに考えれば、死体に蛆がわき腐るように、取り残されたアストラル体にも邪気がわいて分解のプロセスが始まるのかもしれない…

というわけでメンタル体の宿る玉座を奪ってしまう酒は怖い。器に邪気がわく。

 

・自己価値が低く自我を滅却して、人生を進めていく責任を他人に押し付けることは「月」と化すことであり、メンタル体が不在となったアストラルの残りかすである。選択し責任を負う自我=太陽を自身の中から失っていて、そういう人は獣と同じで憑依もされやすく、感情も完全に不安定で、周囲から見ても「怖い」存在となる。刻まれた(反復された)行動パターンのみで動いている。周りはその人が「怖い」ので、その対象をコントロールしようとする動機が生じてしまい、すると対象はますます不在となり月化する。主従関係が出来上がっていく。その人がいつ豹変するか…とまったく信じられないため、周りもその人から何も受け取ることができないし、コントロール(餌やり)をやめれば終わってしまうんだということで周りの人々の自己価値の低下にもつながる。

 

・つまり支配欲は人を月化させる=酔わせる。これが「マタタビ効果」の真相だ。。

 

 

2022年12月の日記 ~大切にしているもの、原点についてのメモ

 

・夢の中でも、認識の瞬間に過去が出現するのを感じた。記憶がその場で生成される。

それに夢の中ではそこで自分が思い描いたシーンがそのまま映るので、入れ子状態も起きやすい。未来を想像して楽しみに思ったり、過去の経験を思い出したり、その両方に区別もつかない。

ここ現実でも、目の前と頭の中を同時にフォーカスすれば、夢の中と同じように「複数の出来事が同時に存在する」ことになる。猶更Here とThere に区別はないと実感する。

今ここにいるこの人はこうなのだ。神さまが貸してくださっている。

 

・エネルギーをむやみに散らさずに愛する練習。獣性にとりこまれず、去るのをただゆっくりと待つ。与えたい、捧げたいと心から想う感覚が生じるまで、待つ。より純粋になり、あえて何かを思い描いたりする必要もなく、光を感じることに身を任せる。

 

・「どうしよう」と思い悩むのは、恐れがあり、それをコントロールしたいという欲の表れ。

 

・アストラルを自分のものにするにはひとつひとつに感情的に反応しない(振り回されない)ことが重要。

 

・他人の内側の問題には干渉せずただ観察するしかない。他人自身の欠乏感がこちらに投影されたとしても、それはこちらの落ち度ではない。

(むしろそういうときこちらに違和感がある場合は、それはこちら側の問題である。「他人のせいで自分の違和感が解消しない」ということはあり得ない。:追記3月)

 

・何もかもはすべて今ここにしかない、ということをすぐに忘れて「月」は眠ってしまうので、眠りから起こすために一連の改変が起きているようにすら思う。何一つ所有(保存)できないということをいまだに思い知らされる。

 

・満月の光の中で嗅ぐバラの香り。どんなアロマにも再現できない、自然な草花の香り。生命の匂い。抱き寄せられるような感覚。寝る前に布団の中から「おやすみ」と告げると、たちまち距離を超えて香りが届いてくる不思議…愛している。

 

・先生の左肩を撫でたらサラサラと木々の葉がこすれ合うような音がした。言葉にならない、いろいろな不思議な感覚に、やっぱりそこにいてくれているんだなと幸せな気持ちになる。

 

・夏に書いていたバケットリストを見直したら半分くらい変わっていた(達成したのもあるし)。そもそも「誰かと一緒に」やりたいことがいくつかあったことに驚いて、知らぬ間に自分がかなり変化したことを知った。どれも一人で十分だ。逆に、誰かが「いてもいい」。どちらでも良くなった。ようやく梅津さんが書いていたような状態になれたのかも。一人であることにこだわる必要もなく、共有や承認の必要もない。

 

バケットリストの半分が変わっても、根本的に大切なものは変わらない。木や土や草花の香り。ナッツやカカオやコーヒーの香り。雨の音、雷の音、風の音、嵐の匂い。火の光と風に揺れる葉、「風景」。

黄土色の壁、サーモンピンクのアクセント、白いペンキで塗った木の家具。風の通る窓の大きなリビング、天窓から入る光。ローズマリー、マジョラム、サンダルウッドを合わせたような、潮風のようなイメージ。鳥のさえずり。ファントムクォーツ。

 

・わたしの愛する存在はあらゆるものとなってわたしと共に在る。生きることはデート。キャッチボールのように未知を楽しんでいく。「どんな未来も世界線も、すべて同じひとつのあなただから」と書いたことを思い出す。

 

・先生の器のことであれこれ拘泥したとき、「あらゆるものとなってわたしのそばにいる」のは、それこそHere でもThere でも変わらないんだと気づいた。そのときに最良と思われるかたち(器)をとり、あたたかい光で満ちている…。

 

土星が「この肉体生命を、この物質界において維持させる在り方」について示しているのなら、トランスサタニアンも同じことがパラレルに言えるのでは。

天王星エーテル体の、海王星アストラル体の、冥王星はメンタル体の、それぞれの在り方について個別のパーソナリティーに合ったタイプがホロスコープのサインに示されているのかもしれない。

たとえばわたしなら、しっかりとした骨組みを持ち、輪郭を与えたエーテルやアストラルで過ごすことが鍵、とか。