アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2024年1月&2月の日記 ~荷物から月を取り出して天に浮かべると決めた日

 

・メドレーの、曲から曲へのなめらかな移行を聴いていて、12星座のサインの境目ってこんな感じなんだろうなと思った。ハウスカスプの5度前ルールというのも、メドレーだと思うとわかる気がする。

 

・トランジットの惑星は、人生のしかるべきタイミングで挿入されることが決まっているBGMのようなもの。BGMに合ったストーリーを展開していく方が作品も盛り上がるし完成度が高まる。

 

・電子の数は陽子の数に一致する。つまり電子をたくさん持つには、陽子=愛と意図をたくさん持つことだ。そして電子をたくさん持つということは、願いが叶いやすくなるということ。(電子=現象化を司るため。)

もし機能として月を電子に例えるなら、月が魔術において重要視されるというのも納得がいく。

 

・♏が神さまとの合一への情熱(エクスタシス)なら、♋は神さまとの共鳴のよろこび、神さまの相似形として生きることを表すのかもしれない。♓や♏ばかりスピリチュアルにとらえて、♋をそんな風には見ていなかったことに気づいた・・・。

力を正しく使うことは、この人の中に神さまの愛と美しさを映すこと。

 

・世界最強のオズも初めてのことは普通に失敗する。それでもごまかしたり八つ当たりすることはない。どんなにかっこわるい状況も静かに受け入れる強さ。かっこいい。

 

・ビジョンの中にこの人が見えるようになってきた。堂々としていて、かつ柔らかく眩しい笑顔。新しいアーキタイプのパートナー。あたたかく、よろこびであふれてくる、対等に高め合う関係。

 

・これまでの元凶がわかった。月に刻まれていた「幸せな気がした」幼稚園時代のとある思い出。何の話をしているのかさっぱりわからないのに、ただそこにいて「聞いているふり」をしていた。♋ってこんな感じなんだ!と思い込んだんだ。そこに、「気になる異性に心を開いてもらった」「旅先の非日常的な特別な時間を共有した」というコードの結びつきを作った。そのリピートがこれまで淡々となされていただけだったんだ。

♋というのは自分が消えることなんだという、幼さゆえの間違った認識のまま、すりガラス越しのような、ぼんやりとしたヴェールのかかった世界で、そこに幸せがあると思い込んでいた。ついに正体を見ることができたんだ!月がくれる幸せの最大値を知ったら、もうむやみに追い求め続けることはない。もっと鮮やかでクリアな、心からのよろこびが瞬間に満ち続けるような、そういう世界に生きていきたい。

 

・これからギフトの山へ向かうというのに、わたしはカバンの中に「何か支えとなるもの」を詰めて出かけようとしていた。ずっとそうやってきたからだ。でも、そんな必要はない。どんなに「もうだめだ」と思っても、諦めずに歩き続けると、そのことが宝になるんだ。それをわたしは経験から知った。昼の月を愛している、けれど、それはもう完了した過去だ。最も執着したものを置いていくと決めたとき、祝福の鐘が鳴る。

 

・つらいことをするので心の支えが必要という発想自体が月だ(幼い)と気づいた。そもそも新しい体験こそがギフトであり、つらいかどうかもまだわからないんだし。わたしは新しい体験そのものに開かれている。生命、この瞬間の未知に開かれ続ける。

ここに生きていること、はっきり明晰であることそれ自体をよろこんでいたい。世界がどうであれ、生命そのものが美しく、意識(=世界)はよろこびに満ちている。

 

・「幸せは時の流れそのもの」という原点に帰っていく。トランジットの星の動き、完璧なシナリオ。流転する世界と、生命のよろこび、虹色がかった白く輝くコクマーの流れるエネルギー。地球次元での時の流れをたのしみ、生命を謳歌するわたしと、よりダイナミックな時代の流れを感じ、そのタイミングでここを覗いている面白さを満喫するわたし。

この「マンデラエフェクト(?)」にも長らく戸惑ってきたけど、量子レベルで異なる地球を、同じひとつのアストラル体の人生で体験する希少さを思うようになった。この今いる量子世界の美的センスがイマイチなことも、まあ試作品だし移行期だししょうがないかな、というような。巨大な視点になった。

 

・耳の調子が悪くなったことで、自分は「音」を聴こうとしていなかったんだと気づいた。自分の思考の声ばかりを聞いて、世界に溢れている音に耳を傾けようとしなかった。五感で拾っている音を遮断していたんだ。人の話も、音楽も、昔から、「きいているようできいていない」。それが心地よかった。これも月蟹座。アランプライスは初めてそれを壊した。彼の曲をかけると作業ができない、つまり「考え事ができない」。それこそが「今ここ」であって、音によるグラウンディングをさせられたんだとわかった。

思考の声を止めようと思っていたけれど、発想が違っていた。そうではなく、ただ世界の音を聴こうとすれば、おのずと思考の声は止むんだ。「地」=感覚。

 

・さそり座ハウス6ステリウムのこともなんとなくわかってきた。あくまでもさそり座はツールで、目的は太陽天秤、あるいはMCみずがめ座だということも。とことんやりこむことで、いつのまにか視界が広がっている。掘り進めるうちに多角的な知恵を身につけている。それがこの人のスタイルなんだ。だから何も心配せず、目の前のことをやろう。

 

・♈♎の力は、自己認識をそのまま他者に伝播させられることかもしれない。「わたしがOKなんだから当然あなたもOKでしょ」という形の逆エンパス。

 

・チャクラのビジュアル化をしたらオーラの各層(各機能?)に対応しているかもしれないと気づく。

 

・なぜ司法に対して違和感や嫌悪感があったのかやっとわかった。わたしは、月の願いを司法の中に投じて、勝手に幻滅し失望していたんだ。争いが穏やかになり、絡まった糸がほどけていくような、皆が「感情的に」分かり合えるような・・・そんな純粋な月の願い。しかし司法の機能は、そこにはない。むしろ、最終手段として決着をつける、不毛なエネルギーコストをカットする、切り札としての外科手術のようなものだ。それは「法的解釈」や「法律論」という、人間ドラマとは全く離れたところで展開されるからこそ、ドラマの中の行き詰まりを終わらせることができる。司法のそのすごさ、価値や意義に初めて気が付いた。

 

・多層的、多次元的な自分の調和。統合。

月を「目的」に据えると途端に無力感に苛まれる。目的はあくまでも太陽であり、手段は他の惑星である。では月は?というと、「最も近いようでいて、最も遠いゴール」なんだ。月の願いはあっていい。ただ、月が思いつくような手段はとらないし、月に直接向かうということもしない。うんと遠回りして、いつか最後にはかなうのだと信じている、そんな純粋な想い。決してすぐには叶わないと知りながら、それでも必ず叶うのだと。愛しく想いながら、遠くから眺めている。そんな昼の月の祝福の世界観の中で、この人、人間としてのわたしは己の光をただ表現する。ロンドンのあの日の太陽と風と草木のように。わたしはその「世界全体」「天球全体」で完全体なんだ。それがわたしの(意識・意図が)表現していく世界なんだ、と理解した。

 

・愛を意図して存在する。先生たちのように。「無条件の愛」が無力感を癒すと言われた意味もわかった。わたしはちゃんと輝いて、すべてを見ている。どんな姿も状況も、ありのまま愛している、ということ。神さまとしてのわたしで存在するよう意図し、そのようにエネルギーを使う。ハイヤーセルフとの同調と言われているのはきっとこのことなんじゃないかと思う。

 

・わたしにできることは、わたしでいることだ。月にはセンタリングという概念はない。月はそもそもが満ち欠けするもの。わたしは意識と意図を太陽に置き、常に完全体として生きる。センタリングが当然の状態であるように。肉体も感情体も、わたし自身ではなく、大切な器だ。部屋をきれいに掃除して清らかに整えておくのと同じことを、肉体にも感情体にもする。たぶんそれが「月を対象化する」こと、H24意識。肉体も感情も常に不完全で良くて、その不完全さ、移ろいを愛している。

 

・ピュアな祈りのある世界観をそのままに、外側の天球に映す。太陽の光の反射で結果的にぼんやりと映し出されていく。

以前書いた通りなんだ。わたしは梅や桜によろこぶシジュウカラメジロのように。あるいは光る蝶のように・・・頬を撫でる風が良い香りを運ぶように。そういう心地よい太陽=愛の放射をする。

わたしにも愛はある。ただ、そのやり方が蟹座ではないというだけだ。

2023年末から2024年始の日記 ~生命の樹と原子について。そして月欠損論についての考察つづき 他

・「陽子は愛=意志で、中性子は調和=意識。電子は物質化」と足立育朗さんという方が言っているそうなんだけど、これって生命の樹でも言えることでは。陽子はコクマー(の柱)、電子はビナー(の柱)、中性子はティファレトと対応する。コクマーとビナーがそれぞれ内衣と外衣という表現にも一致する!ティファレトは「媒介的知性」、いかにも極性を持たない中性子らしいじゃないか。

 

・ビナーが電子だと考えると、ケテルとビナーを結ぶ魔術師のパスが水星に対応するというのも少し理解しやすくなる。水星はふたご座と乙女座のルーラー、つまり"name"を与える。そしてとても「軽い」。

なおセフィラにおいて水星に対応するのはホドで、やっぱりこれもビナーの柱なんだよね。面白い。そういえばビナーはセフィラとしては土星だけど、土星の環も電子らしさがある。

 

・時代の大局観のようなものをより持てるようになってきた。今は当然のような考え方も、誰かが発見して広めたんだ。

人類は巨大なひとつの生命体。とても長く生きている。東西南北、それぞれがそれぞれの役割、機能を果たす。それぞれが見出したものがやがて混ざり合って、また新たなものが生まれていく。音楽も、芸術も、霊的知識や活動も・・・それぞれの時代、それぞれの地域、それぞれの民族にしか見えないもの/味わえない体験。それぞれの持つ感性。なんと面白くて素晴らしい仕組みなんだろう!

 

・個々人のレベルでも同じく↑。その時代、その場所に生きるその人にしか語りえぬもの。背景色も含めてその人だということ。トランスサタニアンは世代のカラー=背景色を決めているとも言えるかもしれない。運命の一側面。

 

・各々が真新しい白紙として誕生し、新しく学び吸収することにこそ意味があり、一見すると遠回りで不都合にも思えるこの仕組みの素晴らしさを感じる。それぞれに固有の感性=「窓」。ステンドグラスは光を通して、色付きの光を届ける。

 

・何十年に一度しか咲かない花の開花のように、全体にとっての、ある劇的な瞬間。そのタイミングでどの部位にいるのかという話は、その花の生涯に注目している視点からするととてもどうでもいい。

 

・太陽の大きさが想像をこえていた件は前に書いたけど、同じく輝度も桁違いなんだなとふと思った。太陽は何の影響も受けない。月が吸おうがなんだろうが、関係ない。ずっと、月をどうにかしようとか、太陽と月の関係…とか考えていたけど、そもそも次元が違った。月はあっても何でも良い。無限の強烈な光に意識をおいたら、あとはすべてなるようになる。(太陽が光っていれば自動的に月も輝く。)

 

・高次元にとっては「白い球」はゴルフボールでもくじ引きのハズレの玉でも同じ。象徴とはそういうもの。パラレルワールドもきっと象徴レベルではどこも同じ。ホロスコープに示されるプロットもそういうこと。決まっているけど決まっていない。どのように具現化されるかはプレイヤーの選択次第。

 

・カルマは波のよう。寄せては返す、その波の中で身を任せて楽しむか溺れるかは自分次第だ。ばしゃばしゃともがけば波はさらに大きく複雑になる。落ち着いて潮目を読むなら、いずれは凪いでいくことを知る。波を知るために波をたてているということを思いだす。

 

・相容れなくても他人の話に耳を傾ける強さを持とうと思って、魔術の本(『モダンマジック』)を読んでみた。自分なりの言葉や発想に置き換えて受け入れようと努めた。

たとえば、「エネルギー的な対価が必要」というのは、「自己紹介のご挨拶としてエネルギーを披露する方が良いということ」。「天使の照応表」とは「専門家のアドレス一覧」。迷惑電話防止のために暗号化されているというのは納得できる。「占術による結果の確認」というのも、結果を支配する在り方に感じて嫌だったけど、「高次元からの助言を求めている」ということをそう表現しているだけなのかなと思い直した。ツンデレかな。

『モダンマジック』の本自体は、書かれた時代背景(著者の生きた時代)を考えれば、その中ではとても中立的で良い本だった。

だけど総じて思ったのは、「西洋」の「魔術師」というのはやっぱり男性的だなということ。「精霊を従える」みたいな発想が…根本的に許せないものがある…(笑)西洋の中で分類するならわたしはウィッカの側なのかもしれない。わたしは頭ばっかり使ってるし、自然と対話とかしてないけどね。

むしろ『モダンマジック』を読んだおかげで日本人としての血が目覚めたかもしれない。

 

・理解しよう、寄り添おうと努めても感情的に受け入れられないときは受け入れられない。幼稚な男性性に辟易する。「支配されないという愛」を貫きつつ、「成長を見守る・待ち続ける愛」、地球の愛と一体化する。そういう決意を新たにした。

 

・自分の幼さも徹底的に拒絶した結果として、幼少期の記憶をなくしたんだとわかった。拒否が忘却をもたらした。無力な自分を受け入れよう。どうでもいいプライドは捨てる。未熟でも歩き始めようという意志に祝福を。

一人何役もこなしていく。「父」であり「母」であり「子」である自分。すべての惑星であるわたし。

 

・しっくりこないときこそ基本に立ち返ることが重要だと改めて思った。つまり、深呼吸して、リラックスすること(笑)。落ち着いて、浄化力を自らの内から引き出すこと。

 

・基本を大事にすることだけでなく、力を振り絞ってでも歩き出すということの大切さ。ネガティブな感情や無気力に覆われているように感じるとき、そこから「救い出してくれる何か」を求めたり期待したりするのではなくて、自分で立ち上がって歩き出す。そこに座り込んでいる限り景色は変わらない。終わりのないこの魂の旅は、歩くか休むかしかないんだから、どちらであっても、せっかくなら笑っていよう。

 

・わたしは「地」の要素が不足しがちだ。『神秘のカバラー』の本では、ネツァクとタロットの小アルカナの対応について、ワンドのみが本来の”勝利”を現すとあった。つまりネツァクを最も美しく表現するには、「火」の在り方であるべきというようなことが書かれていた。わたしもそうだと思う。

それで、それと似たようなことがホドのスートでも言えるんじゃないか?と思いついた。(そんなことは『神秘のカバラー』では一言も触れられていないけど…)今度は逆に「火」のワンドだと速いばかりで収拾がつかないんじゃないかと。そしてソードではがんじがらめになり、カップでは心(感情)が置き去りにされる。こつこつと築くペンタクルこそがホドをより良く表現できる…ような気がした。自説。

ヘブライ語のミツヴァーは、ひとつの同じ言葉で「作業」と「祝福」の両方を意味する。

 

・4元素と馴染むワークをしてみて、ふと、それぞれの浄化についてを考えた。「火」「水」「風」の浄化のイメージはすぐにできるのに、「地」で浄化というとイメージが湧かないことに気づいた。清浄な結晶体、塩の花で浄化されるイメージをしてみることにした。塩なら抵抗なくオーラにも取り込めそう。

 

・4元素と12感覚の観点から、12サインの理解がより深まってきた。

同じ「火」でも、牡羊座はスパーク、着火する火花。存在するよろこび。獅子座は巨大な天球の輝き。存在し始めるのではなく、存在し続けるよろこび、つまり表現するよろこび。射手座は、たいまつに宿した炎。暗いところを照らしに行く。啓発と探求のよろこび。

射手座に関しては解像度があまり高くなかったけど、だいぶイメージが湧いてきた。太陽が月を照らすという意味でティファレトからイエソドのパスが射手座に照応するのも納得。

 

・そして「火」は「地」に落ち着く。甘く重い、スパイスのような、色の濃い湿った土壌のイメージ、牡牛座。肥沃な土、豊穣。(そういえば粘性と表現した友達がいたな…。)体感するよろこび。♈で着火された「情熱」が「耽美」となる。

木の根が張り巡らされ、地層がきれいに分かれているような様子が乙女座。獅子座の光と熱の愛が枝々まで沁みだしていく。営みのよろこび、整うよろこび。ほろほろとくずれる、あたたかくやわらかな畑の土のように。

そして山羊座は、土器だ。薄く固く焼かれた土器、あるいは積み上げられたレンガ。暗所に灯した射手座の炎を絶やさぬよう、維持して囲うための土。なめらかな薄い色の粘土。奉仕のよろこび。

 

・双子座の「風」は木々の葉のざわめき。言の葉。(乙女座の枝と双子座の葉が水星になる。)葉がこすれ合う音を鳴らしていく風。好奇心、遊ぶよろこび。

こまかな双子の風に対して、流線型の長く優美な天秤座の「風」。頬を撫でる。撫でてかたちをたしかめる。理解する、愛おしむよろこび。

そして水瓶座の「風」は、ほとんど動きのない、香りの空気だ。つかみどころなく、しかしあまねく存在する。真理を知る(感じ取る)よろこび。

 

・蟹座の共鳴によるよろこびは池や湖のように。サインシンボル♋のように渦を作って、手を取って回る。同化していく。1つの単位を形成していく。

蠍座の変容のよろこびは深海のように、あるいは地下深くの水脈のように。生命の源泉、隠されている深い愛。

すべてがひとつに帰るよろこびの魚座はやっぱり海。大洋。

 

・感じて動く♈、考えながら動く♎。

気品の♉はHave、引力で惹く♏はDesire = De + sire 星より出でる。

利発な♊ Cleverな少年、聡明な♐ Intelligentな青年。

オポジションを考えるのはいつも楽しい。

 

・「コミュニケーションとはお互いに象徴を投げかけあい、それぞれの象徴体系を合致させることを目的とした行為と考える。」なるほど。

「コミュニケーション」の自信がないからと、共通言語を持つ人を求めていたんだ。言葉や誠意を尽くして説明することに疲れて、同じような象徴体系を持つ人としかまともにかかわらないようになっていた。自分にとって当たり前すぎることを説明するのが苦痛だったんだ。これは月の生き方だ。当たり前=月だから。

「わかってもらう」という結果を求めていたので、なおさら支配的にもなるし、感情的になってイライラもする。それらも月の性質だった。共感とは完全な同意のことだという、幼いころの思い込み。言葉にしなくても「まったく同じように」感じてほしいし、その共鳴こそが親密さ=コミュニケーションの意味なのだという幻想。

「文学会の集まり」で文学を愛する人たちが集まったとき、その愛のかたちはそれぞれ違っていて、互いに象徴を投げかけあうには違いないのに、幼い月はそのサビアンシンボルの本当のところがわからずにはき違える。完全に純粋な共感を非現実的なほどに求める。まるごとの「共感」を求めて苦しんでしまう。最初に目指している幻想がおかしいから、すぐに挫折感を味わうことになる。

 

・太陽天秤はどう「コミュニケーション」するだろうか?わたしは、わたしの発見したことや考え、アイディア、好みや立場を、わたしの象徴体系を使って表現する。共通言語のない人にも、その楽しさやよろこびを少しでも感じてもらえるように。そこに「同化」は要らない。むしろそれぞれの異なる体系に対する敬愛と完全な尊重がある。互いに独立した象徴体系を持つからこそ、「コミュニケーション」を通して本当の相互理解のよろこびが生まれる。

感情の水を投げかけるのではなく、思考(言語、論理)の風。心地よく肌を撫でる風は、相手の独自性を変えることはない。

 

・言葉で言い尽くせないところも感じ取ってほしい(まるごとわかってほしい)のに、自分自身には他人の心のそうした部分を感じ取る能力が不足している。しばしば不足しているという自覚もない。その結果、要求ばかりが一方通行になり、満たされることがない。できもしないのに相手に共鳴しようと変な方向で努力してしまう。これこそが、「欲しい欲しい」と引いてばかりいる月だ。太陽の光を受け取りたい、だけど自分では光れない(反射するしかできない)。

こう考えると、与えるという発想なくもらうことばかり考えている人というのは(もらうための誤った自己犠牲、献身の人も含め)みんな月によって生かされているのかもしれない。

 

・月を絵に描いたような人が人生に登場してきたおかげで、自分の月をさらに見つめることができた。自覚せずに月の願いを抱き続けていたことがわかった。完全無欠な共鳴/共感、完全に一致した象徴体系・・・そんなものは幻想だ。スノウとホワイトのようだ、結局殺し合う。

 

・それぞれに固有の「窓」があるからこそ面白く、異なる象徴体系の中で別の解釈がなされることこそが「コミュニケーション」の深い魅力なんだと気づいた。別の解釈がなされたときは、たいてい「また伝わらなかった…」と失望してきたけど、これからは「そんな解釈になるのか!」と楽しんでいこう。

 

・自分にとって当たり前のことを語るのも、自分の象徴体系を表現すること、つまり自分を構成する窓について語ること、それ自体が十分に目的となるんだ。自己表現というのはそういうことなんだ。同じ窓からなにかを同じように見させることを目的とするわけではない。ただ象徴体系そのもの(窓そのもの)を表現するんだ。5ハウス。

○○ときくと○○を思う、というときに、相手が同じ連想をする必要などどこにもないし、かといってじゃあそんな話をする必要はないのかというと、それは違った。

 

・太陽の光が木々の葉を照らし、美しさが引き出される。そんなふうに、他人の「窓」、別の象徴体系そのものに関心を向けることで、その対象の固有の美しさが浮かび上がってくる。

 

・考えてみれば、自分自身が「わたしが今何を感じているのか」→「何を共感してほしいと思っているのか」ということ自体をわかっていないような気がしてきた。自分でもどうしたいのか、どう接してほしいのかわからないなら、満たされるわけがない。何かを求めているのに、それが何かはわからないなんて。本当は、何も求めていないってことだ!

 

・月とは幼いころに一番はじめに受け取った光だ。蟹座の月では、お世話するよろこびとはこんな感じ、おそろいのよろこびとはこんな感じ。家族が仲良いよろこびとはこんな感じ。という調子で、「子供なりに」理解したサインのイメージ。その「おままごとレベル」の理解のままで人生に対応しようとするからうまくいかなくなる。

 

・月は「満たすべきもの」なんだろうか?その考え自体が間違いじゃないか。月はただ最初のドリルだっただけ。だから「欠損」して「成長しない」というわけでもない気がする。最初のドリルでよくできたイメージにこだわってしまうから「欠損」に見えるだけで、惑星として持っていないサインと同じように、そのサインについて一から学ぶことができるなら、月は問題にならないように思う。

幼いときの光にこだわって再現しようとする=月を「満たそうと」するから、苦しくなるだけ。そのサインの光、よろこびを、月がそこにあるせいで一生手にできないというには言い過ぎな気がする。まったく不得手な他のサインと同じような態度でいればいい。なまじ一番見知った気になる月のサインが一番手薄になるから、欠損になりやすい。生半可なままで成長の機会を逃しやすい。

 

・この世界で最初に受けた祝福の証が月だ、と思った。そう思えば、空に月を見て嬉しく、懐かしくなるこの想いもしっくりくる。ほかの惑星と並べて擬人化したりアスペクトを考えたりすることは本当はナンセンスなんじゃないかとすら思えてくる。

 

・幼さを否定することは、幼さを直視せずにそのままにしておくことでもある。月を必要以上に美化するには「幼さ」というのは都合が悪いからね。ハイスコアでクリアしたのがたかがレベル1の話でしかなかったと、そんなこと思いたくない。でもそれを直視しないせいで、これならできそうだと思ったゲームが、実は全然うまくできなかったという事態に陥る。

 

2023年12月後半の日記 ~生命の樹のセフィロト考察とパスワーク記録

・『神秘のカバラ―』を読んだ。上の次元に行くにつれて男女の役割が反転するというのが面白かった。物質界では男は生ませる存在で、女が生み出す存在だけど、アストラルレベルでは反転し、女が男に生み出させる(形にさせる)と・・・。

 

・1「ケテル」は10「マルクト」で味わったスープからとった出汁のよう。宇宙の源というなら、それはわたしに言わせれば、原始の愛だ。ケテルからコクマーへの流れは意図だ。愛を意図する。知りたいという純粋な好奇心。崖と波を前にした愚者のパス。虹色がかったパール/パールがかった虹色のエネルギー、コクマーの、無補正でむきだしな、ピュアな愛のエネルギー。

ケテルからビナーへの流れは存在性の意図。意図して存在する(存在させる)魔術師のパス。あらゆる具材(かたち)が立ち現れてくる深い黒。

コクマーの流れをビナーが受け止める。愛が存在する。大自然を思わせる女帝のパス。これで至高の三角形。知恵という連想の流れは、理解という形をとって落ち着く、定着する。

別の表現もできる。「雄牛」のパスであるコクマーはアニメーションの動き。キャラに生命を宿す原理そのもの。「家」のパス、ビナーはキャラを描くペンを満たすインクの黒のようだ。大きな顔、横顔のケテルこそ作者。

 

・愛を意図して存在する、愛によって存在を得るようになったのがティファレト。美しさと調和の中に息づく。「犠牲とはエネルギーの変容」。ティファレトの絶対帰依はすべてを愛のもとにまとめあげる要だ。コクマーからケセドへの教皇のパスと、ビナーからゲブラーへの戦車のパス、それぞれの絵柄・モチーフの中間となっている女教皇のパスこそ、ケテルとティファレトを結ぶ径。陰陽のある中で静かに座って受け入れている。深淵のヴェールをまたぐ、神界につながるパス。

 

・コクマーとティファレトを結ぶ皇帝のパスは、ぬいぐるみを動かすところ。You're mine. 思わず笑顔になる♈。

ビナーとティファレトを結ぶ恋人のパスでは、ぬいぐるみとぬいぐるみがごあいさつ。Is that all there is? 気楽な人形劇が始まる♊。

聖書にもある通り。「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。

 

・慈愛と恩恵のケセドは木星であり、愛の鋳型。コクマーとケセドを結ぶパスは規範(鋳型)を示す教皇

力を意味するゲブラーは火星であり、動きそのもの。ビナーとゲブラーを結ぶ戦車のパスは、カゴという形と、+と-の反復による進行。命を燃やす、死(ビナー)を内包しながら、時(ビナー)の流れを進んでいく。

 

・ケセドとゲブラーを力のカードが繋げている。これこそまさに最近まで書いてきたテーマ。燃えるようなゲブラーを微笑みながらいなすケセド。ケセドこそ玉座に座る柔らかな王のイメージでもある(ラスティカ)。受容とは同化作用だ。

 

・作者と繋がっている自覚のあるティファレトの意識は全惑星意識。ティファレトはその中心となる太陽。ネツァクやホドとのパスはそれぞれゲブラーやケセドとのパスと、まるで張力があるかのように均衡する。

 

・面白いのは、物理学でこの宇宙(世界)が理論上11次元まであるとされていることと、生命の樹のセフィロトの数が対応しそうなところだ(ダートを含めれば)。

理屈を超えた本能やよろこびを求める欲望のネツァクはインスピレーションの源であり、言ってみれば右脳的。対するホドはそれらを枠に入れて(分析できるように)名前を付ける、左脳的。

目から入る情報というのはそもそも二次元であり、それを右脳が空間として処理し、左脳が時の流れを把握するからこそ、そこではじめて人間は4次元(3+1次元)に生きる。マルクト、イエソド、ホド、ネツァク。その4次元世界を超えても存在する5次元意識というのがティファレトの領域。

物理学で、余剰次元は粒子の中に小さく折りたたまれているのだという、一見すると訳の分からない話も、上位7つのセフィロトが「隠れたるもの」として存在することを示唆しているのかもしれない・・・。

 

・マルクトは単一の瞬間で、イエソドはネガフィルム、ホドとネツァクで時空だという↑の仮説が正しいとすると、下の三角形はあるひとつの作品内におけるページ移動のようなものだ。最上位の三角形(至高の三角形)は、描き手や読み手の目線のため、作品選択自体が自由だ。そして↑の説だとダートは8次元にあって、それはロバートモンローの言った「アパーチャー」になるのでは。つまり7次元までは個としての意識を持ったまま移動できる。連続したパラレルシフト、あるいは非連続のパラレルジャンプが起こる。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける。」

 

・「やっぱり太陽こそ本物のアーティストですね。」ふいに口にした自分の言葉がヒントになる。光が当たることできらめく木々の葉、浮かび上がる一枚一枚の輪郭の鮮やかさ。「わたしを見て、わたしを愛してください。その陽のエネルギーは、わたしの美しさを引き出すために使って」と先月書いたことと繋がってきてハッとする。

 

・人形劇なのだという悟りを虚しさで終わらせないためにネツァクがある。ネツァクが虚しさを越えさせる。ゲブラーの活力をティファレトの方に導いてくれる。ケセドのプロット/シナリオを動かす、「運命の輪」を回転させる動力。

 

・ケセドとティファレトを結ぶ隠者のパスは♍で、「愛が湧きだすのを待つ」。性を超えた高次元の愛がどういうことかを知る道。「まるで張力があるかのよう」と書いた通り、このパスの向かい側にあるのはティファレトとホドを結ぶ悪魔のパス。これこそティファレトによってバランスを取る意味なのだとわかる。ビナーとティファレトを結んでいた恋人のカードが反転(暗転)して、「両性具有の」悪魔が男女をつなぐ。(ホドは両性具有。)ホドの智恵というのは、”兄さん”的だ。愛したものを閉じ込めたい、原罪。

そして悪魔のカードの意味はもうひとつある。それは、「わけのわからなさ」。本当のところは何も分からない、ということ。ホドでは、わからないものをわかったことにしているだけで、わからない状態に戻っていくのが悪魔のパスだ。

 

・ゲブラーとティファレトを結ぶのは正義のパス。ケセドからの愛(力と隠者のパス)により、力の方向付けの指針を得る。「力を正しく使う」。命を生きるとなると、必ず何かを選択しなければならない。陰陽の中で、偏りを知りながら、どちらかを選ぶことになる。そのときに「わたしの力はそのためにある」と言えるような生き方をするのがこのパスだ。

ティファレトを挟んで反対側の、ネツァクに通じるパスは死神で、これはエゴの死。力を正しく使うために、ネツァクから湧き上がってくる欲望や情動の中から不必要なものはこのパスで死ぬ。エゴの弱さからくる保身や恐れを捨てる。ここで重要なのは、エゴと情動は別であるということ。死神はパスそのものであって、ネツァクではないということ。ネツァク自体をエゴとみなして封じるとどんな情熱も消え去って、それはティファレトの帰依や献身ですらなくなる。本当の献身には身を焦がすような熱い愛、情熱があり、エクスタシスがある。死神のパスは♏のパスでもある。一瞬は永遠。あなたが触れ、あなたに触れるとき・・・。

 

・ティファレトとイエソドの間の節制のパスでは「太陽と月を混ぜている」(と先生が言っていた)。アダム・カドモンであるティファレトの在り方を、日常生活の無意識レベルで実現できるようにする。エアコンのスイッチをONにしたままにできるような。クオリア錬金術だ。黒を白にする特異的転倒。♐の人馬は地に足を付けながら遠くを見据えている。弓道。矢の小径。

 

・ゲブラーとホドを直接つないでいる、吊るされた男のパスは、エネルギーを意図的に頭部に集めるシンボルのように見える。そこで集まってできあがった智恵の光が、イエソドを照らす太陽(のパス)の光になる。まさに↑に書いた通りの、輪郭を浮かび上がらせる光。だけど本当はその知恵は、仮設の枠組みを打ち立てただけで、真実は何も分からない(「意味はあるけどわからない」)ということを知る、受け入れるのが悪魔のパスだった。わからないけど囲ってみる。流転に抗ってみる。そんな原罪を受け入れる。

囲っては形作ろうとするホドへ、ネツァクの強烈な光線が注がれる、塔のパス。右脳と左脳をつなぐ重要な道。火星が対応するそうだけど、ルーラーとしての性質から考えて(♈と♏)、「膜を突き破る」イメージだなと理解。

 

・ホドが干渉しない、ネツァクとイエソドの間にあるパスは無制限だ。ホドが挟まらないから。星のカードは、自由、浄化。太陽が照らしてフレーミングする前の、まだ無限の可能性を持つもの。かたちに受肉する前の普遍性であり、空間を超越する♒。Fish Hookのよろこび。

 

・マルクトにあらわれるすべては自分のシャドウである。物が語り始めるのを感じるとき=ネツァクとマルクトを結ぶ、月のパス、♓。反対の、ホドとマルクトを結ぶのは審判のパス、知性が物に語りかけ、物にいのちを宿すとき。

そして最後にエーテルレベルで調整され、イエソドからマルクトへ流れていく、世界のパス。完全性、カンペキネスを知る。HereもThereも変わらない。

 

生命の樹の3つの三角形は、それぞれが「真・善・美」に対応するのかもしれない。

 

・ダートやそこにある深淵のヴェールのことを、わたしは「わからないもの」と深刻にとらえすぎていたみたい。「君は生きているうちも、もちろん死んでからも、君についている目を君の目で見ることはできないだろう? それと同じことだ。ヴェールも、その存在を知る反射的なものでしか認識することはできない。そしてその反射で起きることは、教えた通りだよ」。ヘミシンクで、「え、これがアパーチャー?」という不思議で奇妙な体験をした。(あれは深淵ではなくパロケトのヴェールの方かもしれないけど・・・)

 

・この宇宙は遊園地なもので、地球はメリーゴーラウンドかな、という例え話を思いついた。

 

・「目の前の人が最愛の推しだったら」というのを実践し続けよう。話を聞く。受け入れる。許す。愛をもって注意をしたり。よろこびが増えるように。互いが常に良い意図を持てるように。エゴの誇示も敵意も消えていく。

 

・ひとつの現実に終着させるマルクト。広がっていくアイディアやイマジネーションが、散逸しないように書き留める。釘を打ち込む。

たえまなく流れるエネルギー、意図、愛を、毎瞬間「ここに存在すること」に変換している。たった一人の「花嫁」を毎瞬間娶っている。マルクト、マルクト、マルクト……

2023年12月前半の日記 ~クインカンクス再発見、金星は抗酸化

 

・火星のエネルギーを次元を落とさずに流し続けることと同時に、次元が落ちてしまった(怒りや欲になってしまった)余剰エネルギーを元に戻す=undoする金星の愛の力。金星は反対向きに自転する。いうなれば「抗酸化」だ。なるべく酸化させないこと、そして酸化しても還元すること。前者が火星の正しい使い方、後者が金星の役割。

なんでもかんでも無分別に受け止める月の女性性ではなく、受け止め方によって愛に変換させる「力」のある女性性。獣をいなし、陶酔させ眠らせる「力」のカードは8番目。8番目のサインはさそり座。マタタビ効果はこうやって使う。相手を貶めるのではなく、男性的な力に屈しないための(恐れから完全に解放されるための)真に強い女性性の「力」を解放する。これは「支配されないという愛」につながる。相手に対する信頼とも。

 

・地を這う蠍から空飛ぶイーグルへ。ゲームに参加せず華麗に身をひるがえす在り方はジョーカーのように。アセンダント双子と水星さそり座のクインカンクスはこうやって使うのか、という発見(というか創造・生み出し)。軽くもあり重くもあり、へらへらとしているのに底知れぬ強さ、深み。何にでもなれる最強のカード。トリックスター。1~21のすべてに貫通しながら全く接していない0のFOOL。語り部と書いてきたそれ。

 

語り部…「語る」と言ってきたけど、そこにはまだエゴを残そうという思いが残っていたんだとわかった。聞き手としての神を自らの外に追いやって、エネルギーを自我にため込んで次元を落とそうとする。「聞いている」のもほかでもない自分なんだ。いかに男性性の方に軸を置いているかを思い知らされた。女性性の方にも自我を置く。

触れられている肉体の自分。存在させられている器の自分。火を受け止めている土のわたし。そうやって意識をスライドさせていく練習。タロットで「このオイルをやると肌はよろこびますか?」なんて質問をするときにも、ああ、発想が男性性♂でしかないんだと気づく…。肌の想いも、石の想いも、木々の想いも、空の想いも、きっと「わかる」ようになる。すべては同じ自分の意識だから。

(いつの間にかHorsetailのエッセンスのテーマをやれていることに気が付いてびっくり!やっぱりフラワーエッセンスすごい)

 

・あらゆるものが自分であるということへの理解が一層深まってきた。理論ではなく本質的に。人だけではなく実になにもかもが、ある意味で「シャドウ」だ。スープの中から型を浮き出させ、それを「わたし」としただけ。残された他のすべては、わたしをつくるために切り離されたものでしかない。

 

・いったん完成した小宇宙の7を内包して、次のステップとして改めてワンドを使う、7+1の8が「力」ということ。「与える」という「女性性」。光で存在し、エネルギーを抱えて昇華し続ける。光が流れる速度に合わせて行動したい。今はまだ、繰り返されてきたせっかちな行動パターンが抜けきっておらず、愛が湧きだしても満ちる前に動いて散らしてしまう…指先までエネルギーの光を灯し、優雅に生きていきたい。「火を土に」のペースを合わせたい。いつでも満たされきったエクスタシスを。

 

・ペースを合わせるといえば、それと同じことで、よく「先生とダンス」「神さまとの共同創造=踊る」と書いてきたけど、楽しく美しく踊るためにはパートナーの動きをよく見ることが不可欠で。そして自分が実際にどんな動きをしているのかを客観的に見るのも大切だ。そのためにわたしは目を良く見開く。感じる。

 

・「今この瞬間の明晰さ、明晰になってはじめて次の瞬間をつくる」と書いていたことを、改めて表現しなおしてみる。「今この瞬間のあなたと愛しあってひとつになって(受け入れて)、そこからはじめて生み出されるものがある」。はっきりと感じ、集中しながらも夢と知り、その感動を絶やさないこと。

 

・「選択の結果の責任を負う」というと堅苦しいけど、要するにすべてを受け入れ楽しむという気概だと書いた。これこそ「一段上の」女性性の「力」であり、またジョーカーでもあると気づく。あの独特の吟遊詩人、道化師のイメージもそういうこと。Is that all there is?♪

宇宙の使者としての自覚をそろそろしないと…こういう勘違い自称ライトワーカー系のセリフは嫌なんだけど。宇宙の使者、その無上のよろこびを、わたしが感じることを許していい。

 

・タロットカードで「力」と「正義」の配置が入れ替わるの、当たり前と言うか本当にどっちでもありだなと思った。選択の責任を負うのは「正義」のカードでもある。

 

・皆それぞれが大切な命を燃やしている。すべての瞬間のあらゆる創造に敬意をはらう。そう考えると、会うときだけでなく、ラインのメッセージひとつとっても、それを読んで返事をするという時間をいただくわけで、ますます真心をこめてコミュニケーションをとろうと改心した。中身空っぽの(気を持たせるだけの…)「うれしいです^^」「楽しみです^^」とかではなくて。一言一言から質の良い波動が放たれているかどうかきちんと吟味する。本当に相手のためになるかどうかと思いが及べば、お節介もしなくなる。大切な時間をいただく価値のあることだけを伝えれば良いのだから。

 

・自分のコミュニケーションの問題点がさらにわかってきた。わたしは「自分はこう考えている」と言ってくる人に対しては「そうなんだね」と言えるように(これでも)なってきたけど、「どういうことだろう?おかしいじゃないか」というような(母のような)タイプに対しては<答えよう>としてしまっていた。答えるというのは、わたしの考えの表明でしかなく。

実は、疑問や不服をぶつけてきている本人は、本人の中で答えがあるんだ。つまり、形として疑問形や感想文のように聞こえるだけで、それは十分に意見表明なのだ、とはじめて気づいた。そのことが長いこと全くわかっていなかった。母のようなタイプは「わからない」という言い方をするので、わたしは「わかる人」として話そうとして、意見が衝突するだけでなく余計な上から目線や力関係まで加わってしまう。しかしとにかく起こっていることは、わたしが余計な干渉をしているのではなくて、単に意見がぶつかっているということなんだ…!!

そうとわかれば、そういうときにはわたしにとっても異なる立場の意見や考え方を知るありがたい学びの機会だと、受け止め方も全く変わってくる。これまでは…疑問文や不服、不納得という形態を投げかけられると、ある意味で「喧嘩を売られた」ととらえてしまっていた。しかも喜んでそれを買っていた。なので相手がすぐにそれを興味なさそうに放ると、こっちは真面目に話しているのに!と、からかわれた気分にさえなっていた。それでなおさら腹を立てていたんだ。

 

・そもそも答えないということが、わたしの中で「負け」と連結していたことがわかった。「不同意でも否定しない」と以前から書いているのにうまくできなかった理由は、自分がなにか表明しなければ塗りつぶされてしまうという恐怖感があったからだ。

相手の何かを放っておくと、自分までそれを投げ込まれたような感覚になる。でも実際には、わたしは投げ込まれたそれをわたしの中で解決することができて、それをわざわざ相手に対する「応答」として表明しなくても大丈夫なんだ。「わたしだったらそれはこう考える」というのは、わたしの中にあればそれで十分だ。

相手に対して(特に、疑問形に対して!)黙っていても、それは負けではない!そもそもが、「答えられないから黙ってるんだ~~」と思われたくなかった、ばかみたいなプライド。答えられないんだ~なんて勝手に思わせておけばいいじゃないか。ある種の「負けるが勝ち」を学ばなくちゃいけない。Twitterとかでも、何かのスイッチで突然反応してしまっていた部分がそこにあったんだ。煽り耐性がないというやつだww

 

・悩みというのはたいてい、見たくない自分自身や現実を(本当は直視するべきなのに)見ないようにするためにすりかえてこしらえるものなんだなと思った。だからこそエゴはもっともらしく「悩み」を持ち続けようとする。

 

・負けるが勝ちを学ぶ、煽り耐性をつける、と考えたときに真っ先にまほやくのオズが浮かんだ。ほかの北の魔法使いたちのことを考えてみると、煽られやすい人は本人も煽ることが好きなんだな。つまり、物事すべてを闘争のようにとらえているということ…。そういう方面はもういいから、オズ的な強さが欲しい。

 

・男性性に女性性の重みを、女性性に男性性の軽やかさを、上手に配分したい。愛が湧きだすペースに合わせて行動する。運動感覚(♐)になる前の生命感覚(♏)、言語(♊)になる前の思考(♉)を大切にする。しっかりと腰を落ち着けて、ゆっくり話す。そして深刻になりすぎることなく、なんでも楽しんで受け止める。やっぱりアランプライス…原点。

 

・♉は2番目のサイン、女教皇のカード、完全な受容の女性性。玉座に座っている王族。そのはずなのに、いつのまにかToDoリストに夢中になって動き回ろうとする癖をなんとかしよう。自分に何が足りなくてこうなっているのかがわかってきて、それが芋づる式に各方面とつながっていって面白い。♉こそI have、「何も探しにいかない、すべてはここにある」。今ここの世界、五感を大切にする要素。何もしないということをするというような人。しかもそれを意欲的に、よろこんで、ある意味目的意識をもって、するということ。空間の全ての粒子にあなたが満ちているのだから、その次元では♉も♏も同じこと。

 

・金星をルーラーとする♉と♎の面白さ。♉を通じても金星にたどりつけたら、還元力は倍加される。

 

・人をほめようとしても不自然になるのは、上品に振る舞おうとするのが不自然だというのと同じで、「外気を使うか内気を使うか」ということなんだ。自分のため込んだパワーを使って人に与えようとしても疲れてしまう。それは電池交換式で、有限な「月明かり」。本当に感動している人(その感動によって相手にエネルギーを与えられる人)というのは、外気を流しているだけで、太陽のようで自然だ。

「こうありたい」と思う在り方は結局いつも同じで、「ただ天と繋がっている」ということに尽きる。「わたしは愛を伝えられない」だとか決め込んで罪悪感に逃避しても何にもならない。できないことにしてふんぞりかえっている場合ではない。

 

・心身の浄化が必要という時に、何をしたらいいんだろうと焦るけど、単に一人の何もしない時間をつくるだけで十分「これが浄化だ」と感じる。あとは太陽にあたること、空を見て、植物を見ること。焦りを捨てて信頼に戻ること。とてもシンプル。脳の断食っていうことかもしれない。

 

・「起こったこと、やったことを受け入れる」♂→♀は1→2【吊るされた男】。

それを反転させた♀→♂は2→1【世界】=「愛によって行動する」。

 

・川が沖の方へ流れていく。沖合にひっそりと咲く一輪の花。わたしはその花のために、川の流れも、空の日差しも、岩場も、なにもかもすべてを用意しよう。それが圧倒的な神の愛、尽きることのない恵み。

 

・自慢げにひけらかす、注目を浴びようとすることは「月」である。称賛される側は光をもらっているから。実は称賛している側、愛を贈る方こそが太陽であって、太陽が照らさなければ輝けないような(よろこびが得られないような)在り方は月なんだ。誰かに承認されないと光ることができない幼さ、不完全性、依存心。

2023年11月後半の日記 ~男性性の覚醒

 

・キーワードは常に「力を正しく使うこと」だ。木金蠍の支配力に悩んでいたけど、それだけではなくそもそも火星自体が、アスペクトの関係やパランの影響でそういった重大テーマをはらんでいた。あの強烈な暴力衝動や情欲がアルファードやメンカルからきていたなら納得する。。。分別できずに吸収してしまった刷り込みを解き放つ。本来のシャクティ=創造性を取り戻す。魔術師のワンド。

 

・男性恐怖と罪悪感は火星と月で何度も上映されてきたそれだった。月の言い分をきき、火星の力を封じるのではなく愛に変容させる。いかに愛をもって自覚的に力を使うか。正しく方向づけるか。

 

・蟹は「自切・脱皮・再生」ができる強みがある。守るために変化を選択する、勇敢なポカホンタスサビアン。共感を示しながらも巻き込まれず、大切なもの・信念を曲げずに守り抜くための力。太陽天秤の「ヒナを守る」テーマと、♎そのもののバランスの美というテーマにもつながっていく。大いなる目的のために与えられた、強大な火星の力。。

 

・月の無意識による共振ではなく、意識的にチューニングする火星。月は良くも悪くも幼い世界観ゆえに、現実の厳しさを知らない(受け入れられない)。だからこそ切断されたリピートの世界にいて、現実世界では欠損を感じさせることになる。現実を直視してからはじめて、「ここで何ができるだろうか?」と意識がはたらき始める。高次のマインドのはたらき。これが要するに「次元上昇」ということだ。

恒星や天王星海王星から何を引き込むかは選べる。意識的に同調する、選択的チューニング♋。

 

・月はこの地球で肉体を動かしていくやり方を学び、無意識に繰り返す必要のあるものが保存されている。体が感情をためているのも同じことだし、インナーチャイルドとそれも同じ。地球で生きていくうえで月の自動化にはどれほど助けられているかわからない。それでも、そこに保存できるデータには限りがあって、そもそも肉体ようなのだから、無意識の月だけであらゆる体験をしようとすると「ルナティック」になる。

 

・不安や恐怖は没入を強める。没入すると次元が落ちる。そうすると月しか使えなくなる。ますます無力になり、不安や恐怖が増大してしまう。とにかく没入しないこと。目の前の物事に必死にならないこと。気楽さを持ち、笑うこと。それが結局愛を強めて、夢を感じる、世界を感じることになる。世界は愛でできているとわかる。

 

・火星のエネルギーさえも楽しむこと。敵をつくる・闘うのではなく、美の宝を守るためにパワー(創造性)を発揮する。その手段が、ポカホンタスサビアンでは「縁組」=受け入れ、取りこみ、光に変えるということ!つまり特異的転倒=笑いにつながっていく!

たとえば汚れを生かして柄にしたり、割れ欠けを金継ぎしたり、腐敗を発酵として楽しんだり。二元論のある中で善を選択していく、その中にも「悪」を取り込む面白さ、遊び心。感動と好奇心で、創造をつづける。そんな男性性をわたしは体現していく。クオリア、名づけ、語り、伽。

 

・何かを「取りに行こう」とする火星を落ち着かせる。欲ではなく愛を教える。愛が湧き出るのを待つ。以前「つくって、それを受け入れる」その反復だと書いたけど、その順番を入れ替えるという発想。愛を意図する。それこそが「力を正しく使うこと」。

 

・欲望満たしではなく、愛の表現だけを受け入れる。欲望満たしの力は、はねのける。これは内も外も同じこと。毅然としてはねのける先生のような女神になる。

 

・奥深くから湧きだす愛を地上で表現する。清らかで純粋な深層水を地上にもたらし、美しい花を咲かすサボテン、あるいは蓮の花のように、内在する美しさの可能性を最大限に発揮する。

 

・今この瞬間も命を燃やしている。生命の表現。生きることは描くこと。描くことは、見方によっては白い紙を引っかき、汚していくことでもある。ワンドを振り下ろす、男性性の原理。その表現をすべて受け止めてよろこぶ女性性の原理。生きることは表現を許されること、愛されることだ。

 

・今この瞬間も大切な命を燃やしている、その大切で貴重なまたとない瞬間を、わたしと会って話したりして使ってくれている人々に心からの感謝をする。すべての人の命の表現を慈しむ気持ちになる。

 

・怒りの下には悲しみが、その下には愛があるのと同じように、欲の下にも愛があることに気が付く。本来の表現に戻していく。

 

・分析して理解するために一度バラバラにしたものを、また組み立てて統合する。パーツごとに洗浄して、そのひとつひとつの機能を最大限に引き出し、アップグレードさせたなら、より良い形で統合されることができる。ホロスコープもそういうツールだなと思った。どの惑星も最終的にはわたしという大きなひとつの人格の中に統合される。ライツのクインタイル、太陽土星クインカンクスドラゴンヘッドサビアン、キロン、どの材料から始めたとしても、結局行きつく結論は同じだ。明確な人物像、神性の表現、わたしはそれになる。先生の瞳はわたしの瞳。You're mine

 

・いつも火星は何かをしたくてたまらず、あふれ出るエネルギーを持て余し、原始的な欲を「器」にぶつけようとしてきた。わたしが外側の男性たちにいだいた感想は、そっくりそのまま自己の女性性が自己の男性性に対していだいた失望と同じものだったんだ。。「何も探しに行かないで。わたしはここにいる。わたしを見て、ただ微笑んで。わたしを愛してください。」「その陽のエネルギーは、わたしの美しさを引き出すために使って。」

 

・衝動の中から丁寧に愛だけを汲み上げる。幼稚な男性性を成熟させる。強烈なエネルギーにのまれずに、いったん自分の中でぐっと抱えて、しっかりと選別する。大切な「器」ならばなおのこと、勢いよくぶつけるな。幼稚な男性性は欲と愛の違いが判らずにそのまま投げ込んでしまう。。自分でどうにもできないからとこちらにすべてを押し付けてぶん投げてくる男どもを、反面教師にしよう。

女性性が女王なら、男性性は王でないと(笑)。貴公子でも王子でも騎士でもなく。圧倒的な力を持ちながら、王は静かに座っている。気位高く、かつ惜しみなく与える。本物の「洗練された」「紳士的な」在り方だ。別に厳めしい王である必要などなく、むしろやわらかな、あたたかい王がいてもいいと思うんだ。とにかく「座っている」落ち着きが重要で(笑)それはつまり、「存在することで与える」という在り方なんだ。

 

・未熟な男性性は卑屈で自信がなく、愛をどう表現したらいいかわからずにドライヤーをあてながら顔色ばかり窺う。「相手を想って行為をしている自分」に酔っているだけで、本当のところはエゴの自分しか見えていない。欲を愛だと思い込んでいる。そのことに気が付き始めたアニムスは問う、「自分はあなたを幸せにするために何ができるのだろう?」答えはやっぱり、「ただそこにいて、うれしそうにしていて。よろこんで」。

 

・ただ愛で存在することだけに注力する。目の前の相手(世界)を感じようとか、何かをしよう、してあげようとかではなくて、ただ祝福とともにそこに在ることが、相手(世界)を照らす。この瞬間、すでに完全であると認めて「座っている」、それはもはや一挙手一投足をこえて、毎秒が愛のエネルギーであふれる。

「相手を幸せにできると知っている」のは愛があるからこその自信、確信。自分が愛されていると知っている、自分が生きていること(世界に感動する心、生命の表現)が世界を幸せにしていると知っている。♈の本当の力はこれかもしれない。愛に裏打ちされた自信が愛を与えるんだ。やっぱりかっこいいな()

相手の自由を許して、愛を信じて、在りたいように咲き続ける。

 

・こうして考えると、男性性の中には女性性があり、女性性の中には男性性があり、まさにあの太極図の通り、二つで一つなのだとよくわかる。この世界に存在することそのものをよろこぶ、世界=大切なひとを抱くように、抱かれるように、ひとつひとつの動作、呼吸すらもやさしく、ゆっくり。毎瞬間が愛の戯れなら。

ここで「毎瞬間が愛するひととのデート」と書いていたことと、「愛が湧きだすまで待つ→呼吸が深くなる→一挙手一投足がエレガントになる(色気が出る)」というのがつながる。一挙手一投足に愛がこもるのも結果論でしかなかったんだ。愛をこめようということ自体が気負いや力みになり、不自然さを生んでしまう。

よく気功で言うところの「外気と内気」、宇宙と繋がらずに自分のエネルギーを無理に使おうとするから疲れるというやつ。エアコンのオンオフと同じで、常にオンの方が消耗しない。いつでも愛と繋がっていたら、「さあ感じよう!」とか「丁寧に動作しなきゃ!」とか思いもしない。それは当然のことだから。ちょうど太陽と月も同じこと。太陽は光っているのが当たり前。一方で、月は光を吸収して放射する。そういう濃縮還元、バッテリー式だと疲れてしまう。

 

・必要なのは意図だけ。愛を意図する、つまり自分が輝いていると知ること。輝くことを意図する。とめどないエネルギーを常に流し続ける、発し続ける、エネルギーそのもので自分が表現されていくことを感じる。こうなると「欲を愛に変換する」とか「欲と愛を選別する」とかいうこと自体が、実はそもそもおかしいとわかる。というのも、もともとあるのは愛であり、欲に落としてしまうのはエゴだからだ。最初に欲や衝動のエネルギーがあるのではない。何の抑圧もなく、内側にためこんだり特定の形に押し込めようとしたりしなければ、流れているのは愛のエネルギーなんだ。陽は陽。外に流す。

存在すること、目を開けていること自体に意識的にエネルギーを使い、それを感じているとき、それがつまりサットヴァなのだと知る。清らかなエネルギーが清らかなまま静かに流れ続ける。

(エネルギーの流れが滞ると、欲望を持て余し器を必要としたり=ラジャス、怠惰になって外から引っ張ってこようとする=タマス)

火を土に、火が土に。エクスタシス。自然と笑顔になる。

 

・常に愛を意図して、愛で存在していたら、間違うことなど何もない。完全な自己信頼、獅子座(さすが太陽ルーラー)。完全に供給され、満たされ受け入れていて、足りないものなど何もない。生命力はよろこびだ。発露するだけ。

2023年11月前半の日記 ~クオリアという単語にハマった(笑)

 

・最愛の人が、どんなわたしのことをより素敵だと思うだろうか、という発想と、最愛の人ならこんなときどうするだろうか、という発想が両面から合わさって、本質的には同じことなのだと理解した。

人に魅せる♎と自分自身である♈。ヘリオセントリック。在りたい自分になっていく。おいしいお味噌汁を作れる人になりたいなw

 

・美しくエレガントな所作だとか、「一挙手一投足に愛を込める」と言っていたことが、「愛の湧き出る選択をすること」「愛が湧きだすのを感じられるまで待つこと」とつながっていたばかりか、「何も探しに行かない。すべてはここにある」(→深い呼吸→手も温まる)、「良い意味での無関心」(思考が過去や未来にいかない、そういう思考をする気すら起きない。他人にも干渉しないし、自分のことも他人のことも何も決めつけない)というところにまで貫通していることに、感動した。

だから結果として「夢=愛を感じている人」であって、「大丈夫よ」とほほ笑むし、「ここにいたくている」ということでもあって。。圧倒的余裕。「明晰さ」「知覚者コミュニケーション」等、その都度バラバラに考えて積み重ねてきたことが、こんな形で統合されるとは!コンジャンクション

 

・ずいぶん前に、「オールOKだけど、自分はこっちの方がより良いと思うな!」という少年漫画の主人公的な在り方を理想と書いたけど、今思えばそれも「自分の外側に対して」の表明(干渉)しか想定できていなかったんだなと思った。同じことを「自分自身の在り方に対して」やっていくということが、自己受容とポジティブな成長動機、向上心との両立だ。わかっているようでわかっていなかったんだな。

 

・自分のことを裏切らない、自分の選択に自信を持つ、ということも、「愛が湧きだす選択をする」ことによって叶う。愛が湧きだすような選択をすると必然的に自分を信じられるという、結果論。

 

・愛を信じ続ける圧倒的な強さこそ浄化力の源でもあって、穢れることのない神性、恐れを焼き尽くす輝き。そういう光を自分が放っているということ。4チャクラを開いて何と同調し続ければよいのかが、少しずつだけどわかってきた。「あなたのようになりたい」と言い続けていよいよ本当に・・・

 

・この次元では一度にすべてをみることはできない、だからこそ「物語の変容」をできる面白さもある。美しい石の、美しいところを眺めながら同時に全体を感じるようなこと。欠損を見ずに(というか欠損と感じずに)きれいな面を祝福し、そのものをまるごと「良きもの」と名付ける=語る。目から取り込んだ2次元映像をもとに脳が3次元空間を作り上げ感じ取るがごとく。次元をひとつ下げるというのはある種の楽しみで、「時の流れ」もそうだ。無時間の静かな海、種子から展開していく。

 

・すべてはクオリアだということでつながった。感じ方が変われば世界が変わる。現実が変わる。物語は変容する。

 

・「今ここの印象を拾う」といったときの印象こそQuale。「感じようとするのではなく感じている意識の存在を知る」ということは、また例え話をするのなら、列車に乗っていて景色を見よう見ようと身を乗り出すのではなく、列車に乗っていることを知ること。しばらく景色を見ているとそうやって流れていくのが当たり前のように思い始めてしまう。列車に乗っているのだということを思い出す。I'm here。どの景色も全体のほんの一部であって、一瞬で過ぎ去っていく。

 

・悪夢すらヒントになり、わたしがしきりに言ってきた「のめりこみ感」はもしかしたら実は単に「恐怖」によって引き起こされる(あるいは強まる)のではないかと。だとすると反対に、「愛」の感覚はその「のめりこみ感」を薄めていく。だから「あなたを近くに感じる」ということにもなる。「知っている」の感覚もそう。

 

伝統芸能が間延びして退屈である理由はそもそも退屈によってトランス状態を作るため(内容は二の次)という話があった。瞑想も言い方によっては究極の退屈だし。恐怖と愛、と呼んだらどちらかが良くてどちらかが悪いような感じがしてしまうけど、そうではなくてただの力の働きの方向性でしかないのだと思った。好奇心・色彩・刺激は恐怖と紙一重で、のめりこませていく力、次元を引き下げていく力。そこから源に戻るための力が愛である。この両者に均衡点をとる存在(のひとつ)が人間(地球人)ということ。(シュタイナーが言いたかったのはこういうこと?)

 

・のめりこんでいるときには、展開が明らかに意味不明でも意味不明だと気づかない。自動思考は「落丁」であり「支流」と書いたけど、月の夢はまさにその映像化、没入体験という感じだ。フォーカス23もそういうことか。本人的には(同次元レベルでは)何の疑いもなく前後関係があって、ドラマを生きているつもりになっている。

 

・フラワーエッセンスが1滴でも効果があるならばコーヒーの1滴でも、と書いたけど、それと同じで、これほどフラワーエッセンスが人の思考パターンや感情的反応の在り方を変えるのなら、日々摂りつづける食事がどういうものかによってもその人の考え方や反射が変わってしまうんだと気が付いた。。

たまたま見た対談で、「人は環境が作る」という話をきいたのもシンクロというか、納得。やっぱり人は花。その姿がどうなるかは、種の問題だけではない。この人はダメだと、人を切り捨てるのもどうかと考え方が変わってきた。かといって「救う」とかいう干渉は違うけど。どうしても無意識にずっとあった、人を見下す傾向(自分を特別視する傾向)にメスが入った感じ。

 

・「カンペキネス」と書いてきたことは、クオリアを完全な状態として感じることかもしれない。すべてが完全だ!というクオリアを抱く、ということ。

 

クオリアを通した物語の変容の代表例が、あの「黒に対する特異的転倒」、つまり笑いとユーモアなのだと気づいた!

 

・正体不明の飢餓感について、それにまともに取り合って「満たされに行こう」とするのをやめる。「何も探しに行かない」「すべてはここにある」「愛が湧きだすのを待つ」。そのうえで選択する。長年の行動パターン、思考パターンを根気よく変えていく。

 

・愛が湧きだすまで待ってから選択するようにすると、すべての選択はOKであるとわかる。「選ぶということは、自分のまとっている周波数とその選択が親和性があるということ」ときいてさらに納得。なおのこと、愛をもって選択していくことの重要性を認識させられる。

 

・妊娠しているような覚悟をもって生活するのはどうか?と思いついた。「神さまをお乗せしている」というのにもつながるし、日々摂りこむものや口にする言葉に、より意識的になる。メタトロンで表示されるくらいに常によろこびや愛、高揚感を感じていたいな。もっともっと、毎瞬間!子供は楽しい遊びや幸せな甘えに飽きることなどないのだから。パルスを増やせ!!

 

・目にするもの、耳にするもの、口にするものといった、摂りこむ周波数に意識的になることは、裏を返せば自分のなりたい周波数に合うように選択していく、結果的に環境もそのように整っていくということなんだとわかった。(綺麗な部屋のような人になりたいから部屋を綺麗にする、というような意味。)いろいろなことが実感として理解できるようになってきた。この意味でもやっぱり、世界は意識の反映であり、わたし=あなたなんだと。

 

・経済力、生活基盤を支える「父」、日々の生活、食事、自らを養い育てる「母」、そのどちらかではなくどちらも身につける。委託しない。前者はこれまで書き連ねてきた「土星」だとして、後者はもしかしたら「木星」に関連するのかもしれない。カペラの活性化によってはじめて木星が眠りから覚めて、ズベンエルゲヌビを理解できるようになったのかもしれない。木金コンジャンクションの新生。

 

・近づきたい理想の姿にまだ何かが足りないと考えたとき、「女王さま」に偏りすぎているとわかった。そして、加えようとしていたやわらかさ、明るさ、親しみやすさ、華やかさ、陽気さが、実は火星かに座の理想の姿なのだとわかって驚いた!!

ずっと書き続けてきたことがすべてつながる・・・つまりわたしは今、男性性と女性性のそれぞれを100%開花させたうえで、両者を統合しひとつの人格の中でバランスをとって体現しようとしているんだ。しかもそのことは、フラクタルにわたしの身体でも起きている。わざわざ先天的な側弯症なのは何のためか?右半身と左半身が愛し合い完全な調和を実現するためだ。

 

・好奇心に目を輝かせて、肩の力を抜いた気楽さで、愉快なことを好む。愛が湧きだすのを待つことができるようになったら、今度はその湧き出した愛を表現する。与える。語る。さえずる。相手を幸せにできると確信している。手を差し伸べてもらえるような、愛される貴公子だ。目の前の相手を完璧なものとして語り、名づけ、祝福する博愛の人。

 

・相手を幸せにできると知っている、と書いたけど、これと同時に「相手が完全に自由であることも知っている」。そのことは実は♎が「個人に尊厳があることを当然のように知っている」というところにつながっている・・・!

 

・さそり座のことを単体で考えても限界があり、前後のおとめ・てんびんを取り入れるうちにいつのまにか思い描いた(女性)像が出来上がった。それと同じで、かに座も単体で見ても限界があったんだ。とはいえ、獅子も双子もこれまでバラバラに考えていた。いよいよそうではなかったと気づいた。

ずっとやりたかった、さみしいメロディーも光に包んで明るく歌い上げるような、水を火にかけるようなそれは、わたしの理想の「男性性」だったんだ!さそりの重みや深刻さを笑わせ、リラックスさせる。愛を投げかける方法も、淡く光るパールのような白い光のヴェールを何層も重ねていく方法だったけど、今思うとそれもいかにも蟹らしい。理想の男性性の体現者を外側に求めてしまっていたけどそうではなかった、わたしが内側に見出して表現することではじめて、わたしの中で陰陽のバランスが取れる。納得いく美しさを表現できる。火星と金星の均衡の中で太陽が輝く。

 

・感動と好奇心は本来一体であるときいて、なるほど。火星の「抱きたい」という想い、情熱で、参入していく。以前「魂をかかわらせる」と書いたのがつながる。「与える」ことの理想の形が、美しいカンペキネスの歌を紡ぎ、美味しい紅茶を淹れるようなことなんだ。大前提に愛がある。

 

・誠実な人になりたいと言っていたら預言カフェでそのヒントをいただいて感動した。ハウス6ステリウムはそうやって活かすということなのか!忠実さ、こまやかさ。

 

・恒星パランで火星のメンカルやアルファードを厄介だなと感じてしまっていたけど、これはもしかしたらあの逆エンパスの話に似て、自身がその集合意識に巻き込まれることなしに、意識的にそこに働きかけていく、良い影響を与えていくことさえできるということかもしれないと思い直した。思っているよりもわたしは無力ではないのかもしれない。

 

・男性性女性性の統合なのだと気が付く前は「オクターブ上の姉妹統合」と書いていて、そのときにはうっすらと、姉はさそり座、妹はかに座と想定していたけど、それがどういうことだったのかわかった。月が女性性を無理に担おうとした結果、本来の女性性の方が男性性を担うことになって、歪み反転していたんだ。

 

・火星かに座の実践では重大な注意点があって・・・一歩間違えるとすぐに月に落ちるということ。月が境界線を引こう引こうとしてもダメだったり、感じよう感じようとすると泥沼にはまっていたように、与えよう与えようとするのも例の「ドライヤー」になる。というか、ドライヤーは月の仕業だったのではとすら。。結局不安がベースにあって、「よろこんでくれただろうか?」と相手の顔色(結果)ばかりを気にしてしまう。見かけ上は同じことをしているので自分でも気づきにくい。

やっぱり、一旦は「わたしは何も感じられないし、境界線も引けないし、何も与えられない」と思うくらいでちょうど良いような気がする。感情的なところが共振できなくても理解する力はあるし、境界線が引けなくてもわたし自身に強い浄化力が備わっているから大丈夫だし、何も直接与えられなくても祝福の魔法をかけて幸せを祈り間接的に与えるということはできる。

月を火星が取り込んだということは、火星が欠損を持つことを火星自身が許したという見方もできる。ふつうの火星らしい働きができなくても、自分はそれでよいのだ、と。

 

・とにかく「湧き出た愛を、表す」だけ。その表す方法は、相手に伝えよう伝えようとする(ハウス3)のではなくて、あくまでも神さまに語る。目の前の人やもの、出来事のすばらしさ、美しさ、愉快さを、常に開けている心の窓を通して、あるいは受話器を通して、描写する。以前書いたショコラティエの話。カカオの香りがあまりに素晴らしいのでショコラをつくる、そういう表現、人為、Man、♂ということ。ただそうしたくて、突き動かされてそうするということ。だからもし、何も湧き出ていないのなら、何もしなくていい(笑)

 

・わたし自身が浄化力のあるパワーストーンのようなもの。表面の汚れをとれば本来の力を取り戻す。クラックもインクルージョンも美しさを生み出す、神さまからのギフト。

 

・わたしはこの星が美しい蝶に羽化していくことを知っているし、少なくともそう願っている。同じように、わたしはこの人生でそれを表現したいし、この瞬間にも感じたいし、この体の中でもそうあるように描いていきたい。

 

 

マンデラエフェクト(?)関連記事まとめ

タグでも検索できるけど、せっかくなので時系列順にまとめてみました。 

反ワクな表現がたびたび出てくるけど許してくださいね。。今ではそんなことよりももっと大きな話だと理解できましたが、あえて修正せず当時のままにしています。

 

alkes.hatenablog.com

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核心と関連していると感じる話。

www.bttp.info

ここに出てくる、これ。

「Qualeは物質へ干渉し因果律を支える」

「Quale」は、クオリアのことではないかと言われている。

クオリアとは、主観的な感じや経験・質感のことで、晴れた空を見たとき「青く感じる」その「感じ」のこと。

 

結局これが全て。

もうここは壊れてる。壊れているとわかったけど、もう悲観はしていない。

むしろ「わたし」の正体を教えてくれてありがとう。