アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2024年1月&2月の日記 ~荷物から月を取り出して天に浮かべると決めた日

 

・メドレーの、曲から曲へのなめらかな移行を聴いていて、12星座のサインの境目ってこんな感じなんだろうなと思った。ハウスカスプの5度前ルールというのも、メドレーだと思うとわかる気がする。

 

・トランジットの惑星は、人生のしかるべきタイミングで挿入されることが決まっているBGMのようなもの。BGMに合ったストーリーを展開していく方が作品も盛り上がるし完成度が高まる。

 

・電子の数は陽子の数に一致する。つまり電子をたくさん持つには、陽子=愛と意図をたくさん持つことだ。そして電子をたくさん持つということは、願いが叶いやすくなるということ。(電子=現象化を司るため。)

もし機能として月を電子に例えるなら、月が魔術において重要視されるというのも納得がいく。

 

・♏が神さまとの合一への情熱(エクスタシス)なら、♋は神さまとの共鳴のよろこび、神さまの相似形として生きることを表すのかもしれない。♓や♏ばかりスピリチュアルにとらえて、♋をそんな風には見ていなかったことに気づいた・・・。

力を正しく使うことは、この人の中に神さまの愛と美しさを映すこと。

 

・世界最強のオズも初めてのことは普通に失敗する。それでもごまかしたり八つ当たりすることはない。どんなにかっこわるい状況も静かに受け入れる強さ。かっこいい。

 

・ビジョンの中にこの人が見えるようになってきた。堂々としていて、かつ柔らかく眩しい笑顔。新しいアーキタイプのパートナー。あたたかく、よろこびであふれてくる、対等に高め合う関係。

 

・これまでの元凶がわかった。月に刻まれていた「幸せな気がした」幼稚園時代のとある思い出。何の話をしているのかさっぱりわからないのに、ただそこにいて「聞いているふり」をしていた。♋ってこんな感じなんだ!と思い込んだんだ。そこに、「気になる異性に心を開いてもらった」「旅先の非日常的な特別な時間を共有した」というコードの結びつきを作った。そのリピートがこれまで淡々となされていただけだったんだ。

♋というのは自分が消えることなんだという、幼さゆえの間違った認識のまま、すりガラス越しのような、ぼんやりとしたヴェールのかかった世界で、そこに幸せがあると思い込んでいた。ついに正体を見ることができたんだ!月がくれる幸せの最大値を知ったら、もうむやみに追い求め続けることはない。もっと鮮やかでクリアな、心からのよろこびが瞬間に満ち続けるような、そういう世界に生きていきたい。

 

・これからギフトの山へ向かうというのに、わたしはカバンの中に「何か支えとなるもの」を詰めて出かけようとしていた。ずっとそうやってきたからだ。でも、そんな必要はない。どんなに「もうだめだ」と思っても、諦めずに歩き続けると、そのことが宝になるんだ。それをわたしは経験から知った。昼の月を愛している、けれど、それはもう完了した過去だ。最も執着したものを置いていくと決めたとき、祝福の鐘が鳴る。

 

・つらいことをするので心の支えが必要という発想自体が月だ(幼い)と気づいた。そもそも新しい体験こそがギフトであり、つらいかどうかもまだわからないんだし。わたしは新しい体験そのものに開かれている。生命、この瞬間の未知に開かれ続ける。

ここに生きていること、はっきり明晰であることそれ自体をよろこんでいたい。世界がどうであれ、生命そのものが美しく、意識(=世界)はよろこびに満ちている。

 

・「幸せは時の流れそのもの」という原点に帰っていく。トランジットの星の動き、完璧なシナリオ。流転する世界と、生命のよろこび、虹色がかった白く輝くコクマーの流れるエネルギー。地球次元での時の流れをたのしみ、生命を謳歌するわたしと、よりダイナミックな時代の流れを感じ、そのタイミングでここを覗いている面白さを満喫するわたし。

この「マンデラエフェクト(?)」にも長らく戸惑ってきたけど、量子レベルで異なる地球を、同じひとつのアストラル体の人生で体験する希少さを思うようになった。この今いる量子世界の美的センスがイマイチなことも、まあ試作品だし移行期だししょうがないかな、というような。巨大な視点になった。

 

・耳の調子が悪くなったことで、自分は「音」を聴こうとしていなかったんだと気づいた。自分の思考の声ばかりを聞いて、世界に溢れている音に耳を傾けようとしなかった。五感で拾っている音を遮断していたんだ。人の話も、音楽も、昔から、「きいているようできいていない」。それが心地よかった。これも月蟹座。アランプライスは初めてそれを壊した。彼の曲をかけると作業ができない、つまり「考え事ができない」。それこそが「今ここ」であって、音によるグラウンディングをさせられたんだとわかった。

思考の声を止めようと思っていたけれど、発想が違っていた。そうではなく、ただ世界の音を聴こうとすれば、おのずと思考の声は止むんだ。「地」=感覚。

 

・さそり座ハウス6ステリウムのこともなんとなくわかってきた。あくまでもさそり座はツールで、目的は太陽天秤、あるいはMCみずがめ座だということも。とことんやりこむことで、いつのまにか視界が広がっている。掘り進めるうちに多角的な知恵を身につけている。それがこの人のスタイルなんだ。だから何も心配せず、目の前のことをやろう。

 

・♈♎の力は、自己認識をそのまま他者に伝播させられることかもしれない。「わたしがOKなんだから当然あなたもOKでしょ」という形の逆エンパス。

 

・チャクラのビジュアル化をしたらオーラの各層(各機能?)に対応しているかもしれないと気づく。

 

・なぜ司法に対して違和感や嫌悪感があったのかやっとわかった。わたしは、月の願いを司法の中に投じて、勝手に幻滅し失望していたんだ。争いが穏やかになり、絡まった糸がほどけていくような、皆が「感情的に」分かり合えるような・・・そんな純粋な月の願い。しかし司法の機能は、そこにはない。むしろ、最終手段として決着をつける、不毛なエネルギーコストをカットする、切り札としての外科手術のようなものだ。それは「法的解釈」や「法律論」という、人間ドラマとは全く離れたところで展開されるからこそ、ドラマの中の行き詰まりを終わらせることができる。司法のそのすごさ、価値や意義に初めて気が付いた。

 

・多層的、多次元的な自分の調和。統合。

月を「目的」に据えると途端に無力感に苛まれる。目的はあくまでも太陽であり、手段は他の惑星である。では月は?というと、「最も近いようでいて、最も遠いゴール」なんだ。月の願いはあっていい。ただ、月が思いつくような手段はとらないし、月に直接向かうということもしない。うんと遠回りして、いつか最後にはかなうのだと信じている、そんな純粋な想い。決してすぐには叶わないと知りながら、それでも必ず叶うのだと。愛しく想いながら、遠くから眺めている。そんな昼の月の祝福の世界観の中で、この人、人間としてのわたしは己の光をただ表現する。ロンドンのあの日の太陽と風と草木のように。わたしはその「世界全体」「天球全体」で完全体なんだ。それがわたしの(意識・意図が)表現していく世界なんだ、と理解した。

 

・愛を意図して存在する。先生たちのように。「無条件の愛」が無力感を癒すと言われた意味もわかった。わたしはちゃんと輝いて、すべてを見ている。どんな姿も状況も、ありのまま愛している、ということ。神さまとしてのわたしで存在するよう意図し、そのようにエネルギーを使う。ハイヤーセルフとの同調と言われているのはきっとこのことなんじゃないかと思う。

 

・わたしにできることは、わたしでいることだ。月にはセンタリングという概念はない。月はそもそもが満ち欠けするもの。わたしは意識と意図を太陽に置き、常に完全体として生きる。センタリングが当然の状態であるように。肉体も感情体も、わたし自身ではなく、大切な器だ。部屋をきれいに掃除して清らかに整えておくのと同じことを、肉体にも感情体にもする。たぶんそれが「月を対象化する」こと、H24意識。肉体も感情も常に不完全で良くて、その不完全さ、移ろいを愛している。

 

・ピュアな祈りのある世界観をそのままに、外側の天球に映す。太陽の光の反射で結果的にぼんやりと映し出されていく。

以前書いた通りなんだ。わたしは梅や桜によろこぶシジュウカラメジロのように。あるいは光る蝶のように・・・頬を撫でる風が良い香りを運ぶように。そういう心地よい太陽=愛の放射をする。

わたしにも愛はある。ただ、そのやり方が蟹座ではないというだけだ。