アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年末から2024年始の日記 ~生命の樹と原子について。そして月欠損論についての考察つづき 他

・「陽子は愛=意志で、中性子は調和=意識。電子は物質化」と足立育朗さんという方が言っているそうなんだけど、これって生命の樹でも言えることでは。陽子はコクマー(の柱)、電子はビナー(の柱)、中性子はティファレトと対応する。コクマーとビナーがそれぞれ内衣と外衣という表現にも一致する!ティファレトは「媒介的知性」、いかにも極性を持たない中性子らしいじゃないか。

 

・ビナーが電子だと考えると、ケテルとビナーを結ぶ魔術師のパスが水星に対応するというのも少し理解しやすくなる。水星はふたご座と乙女座のルーラー、つまり"name"を与える。そしてとても「軽い」。

なおセフィラにおいて水星に対応するのはホドで、やっぱりこれもビナーの柱なんだよね。面白い。そういえばビナーはセフィラとしては土星だけど、土星の環も電子らしさがある。

 

・時代の大局観のようなものをより持てるようになってきた。今は当然のような考え方も、誰かが発見して広めたんだ。

人類は巨大なひとつの生命体。とても長く生きている。東西南北、それぞれがそれぞれの役割、機能を果たす。それぞれが見出したものがやがて混ざり合って、また新たなものが生まれていく。音楽も、芸術も、霊的知識や活動も・・・それぞれの時代、それぞれの地域、それぞれの民族にしか見えないもの/味わえない体験。それぞれの持つ感性。なんと面白くて素晴らしい仕組みなんだろう!

 

・個々人のレベルでも同じく↑。その時代、その場所に生きるその人にしか語りえぬもの。背景色も含めてその人だということ。トランスサタニアンは世代のカラー=背景色を決めているとも言えるかもしれない。運命の一側面。

 

・各々が真新しい白紙として誕生し、新しく学び吸収することにこそ意味があり、一見すると遠回りで不都合にも思えるこの仕組みの素晴らしさを感じる。それぞれに固有の感性=「窓」。ステンドグラスは光を通して、色付きの光を届ける。

 

・何十年に一度しか咲かない花の開花のように、全体にとっての、ある劇的な瞬間。そのタイミングでどの部位にいるのかという話は、その花の生涯に注目している視点からするととてもどうでもいい。

 

・太陽の大きさが想像をこえていた件は前に書いたけど、同じく輝度も桁違いなんだなとふと思った。太陽は何の影響も受けない。月が吸おうがなんだろうが、関係ない。ずっと、月をどうにかしようとか、太陽と月の関係…とか考えていたけど、そもそも次元が違った。月はあっても何でも良い。無限の強烈な光に意識をおいたら、あとはすべてなるようになる。(太陽が光っていれば自動的に月も輝く。)

 

・高次元にとっては「白い球」はゴルフボールでもくじ引きのハズレの玉でも同じ。象徴とはそういうもの。パラレルワールドもきっと象徴レベルではどこも同じ。ホロスコープに示されるプロットもそういうこと。決まっているけど決まっていない。どのように具現化されるかはプレイヤーの選択次第。

 

・カルマは波のよう。寄せては返す、その波の中で身を任せて楽しむか溺れるかは自分次第だ。ばしゃばしゃともがけば波はさらに大きく複雑になる。落ち着いて潮目を読むなら、いずれは凪いでいくことを知る。波を知るために波をたてているということを思いだす。

 

・相容れなくても他人の話に耳を傾ける強さを持とうと思って、魔術の本(『モダンマジック』)を読んでみた。自分なりの言葉や発想に置き換えて受け入れようと努めた。

たとえば、「エネルギー的な対価が必要」というのは、「自己紹介のご挨拶としてエネルギーを披露する方が良いということ」。「天使の照応表」とは「専門家のアドレス一覧」。迷惑電話防止のために暗号化されているというのは納得できる。「占術による結果の確認」というのも、結果を支配する在り方に感じて嫌だったけど、「高次元からの助言を求めている」ということをそう表現しているだけなのかなと思い直した。ツンデレかな。

『モダンマジック』の本自体は、書かれた時代背景(著者の生きた時代)を考えれば、その中ではとても中立的で良い本だった。

だけど総じて思ったのは、「西洋」の「魔術師」というのはやっぱり男性的だなということ。「精霊を従える」みたいな発想が…根本的に許せないものがある…(笑)西洋の中で分類するならわたしはウィッカの側なのかもしれない。わたしは頭ばっかり使ってるし、自然と対話とかしてないけどね。

むしろ『モダンマジック』を読んだおかげで日本人としての血が目覚めたかもしれない。

 

・理解しよう、寄り添おうと努めても感情的に受け入れられないときは受け入れられない。幼稚な男性性に辟易する。「支配されないという愛」を貫きつつ、「成長を見守る・待ち続ける愛」、地球の愛と一体化する。そういう決意を新たにした。

 

・自分の幼さも徹底的に拒絶した結果として、幼少期の記憶をなくしたんだとわかった。拒否が忘却をもたらした。無力な自分を受け入れよう。どうでもいいプライドは捨てる。未熟でも歩き始めようという意志に祝福を。

一人何役もこなしていく。「父」であり「母」であり「子」である自分。すべての惑星であるわたし。

 

・しっくりこないときこそ基本に立ち返ることが重要だと改めて思った。つまり、深呼吸して、リラックスすること(笑)。落ち着いて、浄化力を自らの内から引き出すこと。

 

・基本を大事にすることだけでなく、力を振り絞ってでも歩き出すということの大切さ。ネガティブな感情や無気力に覆われているように感じるとき、そこから「救い出してくれる何か」を求めたり期待したりするのではなくて、自分で立ち上がって歩き出す。そこに座り込んでいる限り景色は変わらない。終わりのないこの魂の旅は、歩くか休むかしかないんだから、どちらであっても、せっかくなら笑っていよう。

 

・わたしは「地」の要素が不足しがちだ。『神秘のカバラー』の本では、ネツァクとタロットの小アルカナの対応について、ワンドのみが本来の”勝利”を現すとあった。つまりネツァクを最も美しく表現するには、「火」の在り方であるべきというようなことが書かれていた。わたしもそうだと思う。

それで、それと似たようなことがホドのスートでも言えるんじゃないか?と思いついた。(そんなことは『神秘のカバラー』では一言も触れられていないけど…)今度は逆に「火」のワンドだと速いばかりで収拾がつかないんじゃないかと。そしてソードではがんじがらめになり、カップでは心(感情)が置き去りにされる。こつこつと築くペンタクルこそがホドをより良く表現できる…ような気がした。自説。

ヘブライ語のミツヴァーは、ひとつの同じ言葉で「作業」と「祝福」の両方を意味する。

 

・4元素と馴染むワークをしてみて、ふと、それぞれの浄化についてを考えた。「火」「水」「風」の浄化のイメージはすぐにできるのに、「地」で浄化というとイメージが湧かないことに気づいた。清浄な結晶体、塩の花で浄化されるイメージをしてみることにした。塩なら抵抗なくオーラにも取り込めそう。

 

・4元素と12感覚の観点から、12サインの理解がより深まってきた。

同じ「火」でも、牡羊座はスパーク、着火する火花。存在するよろこび。獅子座は巨大な天球の輝き。存在し始めるのではなく、存在し続けるよろこび、つまり表現するよろこび。射手座は、たいまつに宿した炎。暗いところを照らしに行く。啓発と探求のよろこび。

射手座に関しては解像度があまり高くなかったけど、だいぶイメージが湧いてきた。太陽が月を照らすという意味でティファレトからイエソドのパスが射手座に照応するのも納得。

 

・そして「火」は「地」に落ち着く。甘く重い、スパイスのような、色の濃い湿った土壌のイメージ、牡牛座。肥沃な土、豊穣。(そういえば粘性と表現した友達がいたな…。)体感するよろこび。♈で着火された「情熱」が「耽美」となる。

木の根が張り巡らされ、地層がきれいに分かれているような様子が乙女座。獅子座の光と熱の愛が枝々まで沁みだしていく。営みのよろこび、整うよろこび。ほろほろとくずれる、あたたかくやわらかな畑の土のように。

そして山羊座は、土器だ。薄く固く焼かれた土器、あるいは積み上げられたレンガ。暗所に灯した射手座の炎を絶やさぬよう、維持して囲うための土。なめらかな薄い色の粘土。奉仕のよろこび。

 

・双子座の「風」は木々の葉のざわめき。言の葉。(乙女座の枝と双子座の葉が水星になる。)葉がこすれ合う音を鳴らしていく風。好奇心、遊ぶよろこび。

こまかな双子の風に対して、流線型の長く優美な天秤座の「風」。頬を撫でる。撫でてかたちをたしかめる。理解する、愛おしむよろこび。

そして水瓶座の「風」は、ほとんど動きのない、香りの空気だ。つかみどころなく、しかしあまねく存在する。真理を知る(感じ取る)よろこび。

 

・蟹座の共鳴によるよろこびは池や湖のように。サインシンボル♋のように渦を作って、手を取って回る。同化していく。1つの単位を形成していく。

蠍座の変容のよろこびは深海のように、あるいは地下深くの水脈のように。生命の源泉、隠されている深い愛。

すべてがひとつに帰るよろこびの魚座はやっぱり海。大洋。

 

・感じて動く♈、考えながら動く♎。

気品の♉はHave、引力で惹く♏はDesire = De + sire 星より出でる。

利発な♊ Cleverな少年、聡明な♐ Intelligentな青年。

オポジションを考えるのはいつも楽しい。

 

・「コミュニケーションとはお互いに象徴を投げかけあい、それぞれの象徴体系を合致させることを目的とした行為と考える。」なるほど。

「コミュニケーション」の自信がないからと、共通言語を持つ人を求めていたんだ。言葉や誠意を尽くして説明することに疲れて、同じような象徴体系を持つ人としかまともにかかわらないようになっていた。自分にとって当たり前すぎることを説明するのが苦痛だったんだ。これは月の生き方だ。当たり前=月だから。

「わかってもらう」という結果を求めていたので、なおさら支配的にもなるし、感情的になってイライラもする。それらも月の性質だった。共感とは完全な同意のことだという、幼いころの思い込み。言葉にしなくても「まったく同じように」感じてほしいし、その共鳴こそが親密さ=コミュニケーションの意味なのだという幻想。

「文学会の集まり」で文学を愛する人たちが集まったとき、その愛のかたちはそれぞれ違っていて、互いに象徴を投げかけあうには違いないのに、幼い月はそのサビアンシンボルの本当のところがわからずにはき違える。完全に純粋な共感を非現実的なほどに求める。まるごとの「共感」を求めて苦しんでしまう。最初に目指している幻想がおかしいから、すぐに挫折感を味わうことになる。

 

・太陽天秤はどう「コミュニケーション」するだろうか?わたしは、わたしの発見したことや考え、アイディア、好みや立場を、わたしの象徴体系を使って表現する。共通言語のない人にも、その楽しさやよろこびを少しでも感じてもらえるように。そこに「同化」は要らない。むしろそれぞれの異なる体系に対する敬愛と完全な尊重がある。互いに独立した象徴体系を持つからこそ、「コミュニケーション」を通して本当の相互理解のよろこびが生まれる。

感情の水を投げかけるのではなく、思考(言語、論理)の風。心地よく肌を撫でる風は、相手の独自性を変えることはない。

 

・言葉で言い尽くせないところも感じ取ってほしい(まるごとわかってほしい)のに、自分自身には他人の心のそうした部分を感じ取る能力が不足している。しばしば不足しているという自覚もない。その結果、要求ばかりが一方通行になり、満たされることがない。できもしないのに相手に共鳴しようと変な方向で努力してしまう。これこそが、「欲しい欲しい」と引いてばかりいる月だ。太陽の光を受け取りたい、だけど自分では光れない(反射するしかできない)。

こう考えると、与えるという発想なくもらうことばかり考えている人というのは(もらうための誤った自己犠牲、献身の人も含め)みんな月によって生かされているのかもしれない。

 

・月を絵に描いたような人が人生に登場してきたおかげで、自分の月をさらに見つめることができた。自覚せずに月の願いを抱き続けていたことがわかった。完全無欠な共鳴/共感、完全に一致した象徴体系・・・そんなものは幻想だ。スノウとホワイトのようだ、結局殺し合う。

 

・それぞれに固有の「窓」があるからこそ面白く、異なる象徴体系の中で別の解釈がなされることこそが「コミュニケーション」の深い魅力なんだと気づいた。別の解釈がなされたときは、たいてい「また伝わらなかった…」と失望してきたけど、これからは「そんな解釈になるのか!」と楽しんでいこう。

 

・自分にとって当たり前のことを語るのも、自分の象徴体系を表現すること、つまり自分を構成する窓について語ること、それ自体が十分に目的となるんだ。自己表現というのはそういうことなんだ。同じ窓からなにかを同じように見させることを目的とするわけではない。ただ象徴体系そのもの(窓そのもの)を表現するんだ。5ハウス。

○○ときくと○○を思う、というときに、相手が同じ連想をする必要などどこにもないし、かといってじゃあそんな話をする必要はないのかというと、それは違った。

 

・太陽の光が木々の葉を照らし、美しさが引き出される。そんなふうに、他人の「窓」、別の象徴体系そのものに関心を向けることで、その対象の固有の美しさが浮かび上がってくる。

 

・考えてみれば、自分自身が「わたしが今何を感じているのか」→「何を共感してほしいと思っているのか」ということ自体をわかっていないような気がしてきた。自分でもどうしたいのか、どう接してほしいのかわからないなら、満たされるわけがない。何かを求めているのに、それが何かはわからないなんて。本当は、何も求めていないってことだ!

 

・月とは幼いころに一番はじめに受け取った光だ。蟹座の月では、お世話するよろこびとはこんな感じ、おそろいのよろこびとはこんな感じ。家族が仲良いよろこびとはこんな感じ。という調子で、「子供なりに」理解したサインのイメージ。その「おままごとレベル」の理解のままで人生に対応しようとするからうまくいかなくなる。

 

・月は「満たすべきもの」なんだろうか?その考え自体が間違いじゃないか。月はただ最初のドリルだっただけ。だから「欠損」して「成長しない」というわけでもない気がする。最初のドリルでよくできたイメージにこだわってしまうから「欠損」に見えるだけで、惑星として持っていないサインと同じように、そのサインについて一から学ぶことができるなら、月は問題にならないように思う。

幼いときの光にこだわって再現しようとする=月を「満たそうと」するから、苦しくなるだけ。そのサインの光、よろこびを、月がそこにあるせいで一生手にできないというには言い過ぎな気がする。まったく不得手な他のサインと同じような態度でいればいい。なまじ一番見知った気になる月のサインが一番手薄になるから、欠損になりやすい。生半可なままで成長の機会を逃しやすい。

 

・この世界で最初に受けた祝福の証が月だ、と思った。そう思えば、空に月を見て嬉しく、懐かしくなるこの想いもしっくりくる。ほかの惑星と並べて擬人化したりアスペクトを考えたりすることは本当はナンセンスなんじゃないかとすら思えてくる。

 

・幼さを否定することは、幼さを直視せずにそのままにしておくことでもある。月を必要以上に美化するには「幼さ」というのは都合が悪いからね。ハイスコアでクリアしたのがたかがレベル1の話でしかなかったと、そんなこと思いたくない。でもそれを直視しないせいで、これならできそうだと思ったゲームが、実は全然うまくできなかったという事態に陥る。