アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年2月と3月の日記 ~クジラの骨笛の回収、エゴの穴づくり、n回目の明晰

 

・自分に約束した通りに生きよう。恐怖から逃げることが最も恐ろしいことだ。どんなことが起きようと、自分との約束を破るよりも悪いことはない。

 

・まだまだ焦ってしまう…けどカンペキネスを一旦思い出せば焦りは起きなくなる。「自分にとっての最高の物語」を知っている状態。いつもそうありたい。自分の人生も他人の人生も、あらゆるプロセスを信頼すること。ひとつひとつが理解できなくても、つながっていることをただ「知る」こと。Believe in Magic。

 

・部屋に入ってきたエナガを逃がしてしまう夢。潜在意識ではまだ自分がそれほど多くの幸運を受け取って良い存在だと認め切れていないみたい。奇跡のような現実をひとつずつ、少しずつ受け入れていくことで癒されていくのだろう。そして自分が愛とよろこびをもって行為する、そういう自分を信じていること。罪悪感を癒すのもすべては信頼だ。

 

・すべての行動の原則を愛とよろこびにしよう。そうしたい。生きているだけで周りが本質を取り戻し活性化するような、澄み切った美しい噴水のような最高のヒーラーになる。それはそれ自体を狙って目指すのではなくて、いつも明晰なサットヴァであること、よろこびの人でいることの結果としてそうなるに過ぎない。

 

・自分の中で「恋愛とはこういうもの」と決めつけているパターンに、自分が「素の状態」でいることが相容れなかったんだとわかった。愛することは媚びること、自分を消して相手の欲望を満たすことだとさえ思っていたんだ。これもまた夢が、まったく新しい恋愛の形を教えようとしてくれている。「知っているパターンと違う」という理由で受け入れようとしてこなかっただけだ。あとはわたしが心を開くだけ。自分のままでいることと、「愛している」状態が一致する感覚を初めてつかんだ。相手がそこにいることを心の底から受け入れているというような。ナッツの香り、昼の空に浮かぶ月、ウールのおくるみ。

 

・血みどろの泥仕合からいかに身を引くかの練習再び。そういうときってエゴの危機だから、エゴが過剰に武装するんだな。そして特に、月を投影している相手に起きやすい。エゴ=地球なので、その周りをまわっている月が地球の思い通りでないと許せなくなる。というわけで、月側の立場、干渉される側の立場に立ってみると改めて、自分が干渉する側になってしまうことのないよう気を付けよう…と思った。勝手な共感や過去の投影は迷惑でしかない。自分が以前クリアしたゲームのステージに似ていても、他人のゲームは自分とは全く違うものなのだから。

 

・「自分を大切にする」とか「自分軸を持つ」とかの概念がいつのまにかただ「我を強める」ことにすり替わっている事例を見ると、反面教師にするしかないと切なくなる。我が強いと結果的に我を押し通すし、人にも我を押し付けるし、なにも良いことがない、最悪だ。わたしは我を手放し煮干しモードでありたい。見下されようが何だろうが、相手の中のセルフイメージなど変えられるものでもないしね、ただ受け流すだけ。(その人はそうやってかろうじて我を保っているんだ、と後で気づいたw わたしはその人自身が自身にそうあることを許していないシャドウを演じていたんだね(後述))

 

・今ここに集中しながら次の瞬間を創造し続ける明晰の感覚を、もっと未来の計画を立てたり思考を巡らせている時にも持ち続けていたい。まだ難しいと感じるけど、先生は意図するだけで簡単なことだという。意図してみたことがないだけだよ、と。

そういうわけで意識したら少しずつできるようになってきたかも。むしろ発想が逆で、「思考によって今この瞬間がよろこびに満ちる」、それが本来の思考の使い方なんだ。(よろこびはポジネガを超越したもの。)逆にそうでない思考はすべて不要なエゴの思考。。

 

・Travel light = 自分にとって本当に必要なものだけを残し、あとは手放す。明晰な意識と愛、よろこび、安心と高揚、世界=最愛のひと、未知と好奇心、列車と車窓と風景、口づけ。どこにでも持ち運べて足場になる、テントセットのようなもの、つまり人間力としての土星、シェルター。それさえあれば必要なものは何もない。不安も焦りも重いだけの不要物。後悔はピンク色の飴玉で溶かす。

 

・わたしの中に強い禁止があるからこそ他人に干渉すると気づいた。これまでは、「嫌いな人」が自分のシャドウだととらえていたけど、イライラして干渉してしまう(コントロールしようとしてしまう)相手も実は同じシャドウで、「自分自身がそうあることを許していない」ということなんだ。「自分だったらこうするのに」というのはつまり、「自分がそうできないことは許さない」ということ。許せていない、そこにルールが存在していることに気が付くまで物事は繰り返し起こり続ける。「相手=自分」に対して、それでもいいんだよ、と受け入れたら、すべてが変わった。

 

・たとえば、わたしはネガティブな感情を表出して人を巻き込むことを憎んでいて、自分がそうなってはいけないと強く禁止した。そのため、感情表現自体を抑えがちだし、つい表現をしてしまうと罪悪感があった。だから人が感情を表現することはなおさら許せなくてイライラした。他人を許す前にまず自分がそうあることを許す。

感情表現を恐れる必要はない。罪悪感なんか感じなくて良い。海の愛を(自分を含めた)すべての人に。海の愛は海だから、何の影響も受けないのだ。ただそこで見ていて I know と言ってくれる先生のように。わたしは透き通っている。わたしは「大丈夫だと知って」いる。受け流し浄化する。あらゆる在り方をすべて受け入れてから、改めて選択すればよいのだ。完全な自由と許しの上での行動選択。(「自分ならこうする」というのはその最後にある。)

 

・感情を感じ切って浄化する必要があったのは他でもないわたしだった。。傷への恐怖と、無力な悲しみ。ひたすらに無力である悲しみ。。あまりに悲しく苦しいため、それを覆い隠そうとする支配欲、怒り、攻撃、否定。感情を全身で(赤ん坊のように)感じると、たしかに形容できない体感に変化していった。胃のあたりの不快感とか。そこまで来たら、あとはイメージングで浄化し癒していく。

 

メタトロンをやったら予想通り尿管や子宮壁で炎症が起きていて、イナ・シガールの本で「炎症」の項を見ると、「いらだち、内なる葛藤。挑発的な態度。目の前で起こっている不正への怒り。人が自分を支配・管理することを許してしまうこと。自分を傷つけるような言動」とある。。

メタトロンの感情のところに「義憤」が出たのが意外だったんだけど、↑の「不正への怒り」と一致してることに驚いた。むしろその感情を自覚的に感じられていないことが問題なのかもしれない。本当はワクやらコオロギやらなにもかもに対して怒っているのに、どうにもできない無力感がつらいせいで最初からフタをしてしまっている気がする。

 

・電車の車窓が少し開いていた。ガラス越しとは全く違う感動がある。同じ青空でも、ただのコンクリートの構造物でも。明晰夢と同じだ、と思った。何を見ているかに関係なくよろこびがある。

苦しみが入ってき続けたからあるときからガラスで仕切ってしまったんだ。トンネルの中ではガラスに内側が映るのも示唆深い。今、また窓を開けよう。どんな景色もすべて美しいから。ポジネガを超えてすべてを眺めていたい。どこまでも旅を楽しもう。

 

・ここにいたくているということをまた別の角度から改めて実感した。意識状態一つでここも霊界も本当に何の差もない。内側の真実として、ここにいること自体に満たされている。そして奉仕のよろこびを感じる。何も言わず微笑んでいる先生たちのように、わたしも「ここで」今そういう存在になれる(なっている)んだ。

 

・起きることはすべて必要な体験であり、すべてはレスポンスに尽きる。

 

・いかに真我の状態にアクセスするかということだけが重要で、アストラルがどんな状態か(機嫌が良いかどうか、穏やかかどうかなど)は大した問題ではない。エゴの表面にたくさん穴を開けておくことで真我へのアクセスルートが作れる。エゴの表面上で思考がぐるぐるしたときその穴に引っかかったら真我を思い出しやすくなる。そういうトリガーを設置しておく。

 

・なにかを「する」のではなく「起こす」。ふたつの目を大きく見開いて、ただゆっくりと呼吸するだけで、すべてはうまく運んでいく。

今までよく先生に「でも、いったいどうやって?具体的には何をすれば?」と尋ねていたけど、ただそう「意図すればよい」だけだとようやく真に理解した。