アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年8月の日記 ~夢を感じる。(男女の)愛についてなど…

 

・「全部いいんだよ~」「大丈夫なんだよ~」という土星の福音をクインカンクスで。でもただの優しさとは違う、ものすごく、とてつもなく深いところから来る愛。

 

・内側の光、上機嫌でいるときのわたしのバイブレーションの偉大さ!思い返せばずいぶん前から同じことを言われていたんだ。いよいよその「愉快さ」の重要性を心から理解した! そして本当に、自分の内側に大きく輝く太陽を見出した。あらゆる闇を焼き尽くす、燦然とした巨大な光の球・・・!!

 

・自分の人生の展開だけでなく、人のためにももっと輝け。人のために人を照らせ! 大いなる気づきが人々の中にたくさん起こるように。人々がよろこび、愛が増え広がりますよう!

もう百万回くらい書いてきたけれど、ありのままにさえずって、それが人々の福音となるような生き方をしていきたい。いつか天使になるのではなくて、本当はもうすでに今なっている…わたしは何かをしなくちゃいけないのではなく、ただ意図して、存在していれば良いんだ。人の目を静かに見つめるだけで何かが起こるということを、だんだん経験として信じるようになってきた。圧倒的安心感で包んだり、愉快さを伝播させたり。まさに先生たちがわたしにしてくれるように。もっと修練しよう。少しでも強い光を届けられるよう、曇りなき透明さを。

 

・ロンドンの太陽と冷たい空気、風のような人になりたいと書いてたの、IC獅子とMC水瓶に対応するイメージでもあると思った。表に出るのは風の方でも、根底には平等に降り注ぐ愛の光がある。

 

・「大我の一滴にも感謝するような」という表現を読んで、お金もそうだ、一円にも血肉が宿っていると思うようになった。

 

・これほどホロスコープのことを書いてきたけど、結局最終的には「無自覚に実現されるもの」であって、意識しすぎても空回りするだけだなと思った。演じたら意味なし。食事指導に通じるものを感じる。何か葛藤、問題があるときに分析手段とするのは良いけど、「今はこういう時期なのでこれをしましょう!」とマニュアル化するのは違和感がある。本来の星の働きは人が思うよりずっと奥深いはずだ。それを表面的な知識のつなぎ合わせで、おおかた分かったかのような気になって。それこそがコントロールだし、傲慢だと思った。大切なのは心に従って生きることだ。

 

・トランスサタニアンを一人で担おうとするのも間違い。人々の中のパーツとして自然と表現されていくものなんだと思った。それこそ、点描画のひとつの点のように。宇宙から見たら、どんなに小さくてもなくてはならないもの。だけどその役割を点の方が見ることは叶わないんだ。

 

・水はそれが入る器によってそのかたちを変えるけれど、水は器そのものではない。自分がどんな人間なのか器を見て決めつけてはいけない。もちろん、他の人のことも。

 

・意図と行動を一致させるということは意図と思考を一致させることでもあるかもしれない。思考と行動が一致しても意味はない。それはただの月だ。

 

・新しい自分ならこんな風に行動していくだろうというパターンに変えていこう。今、この瞬間から「わたし」の創造はいつも始まっている。火を土に、の繰り返し。

 

LGBTの不自然なところは、純粋な「好き」という気持ちではなく、それより先に何かを強力に(自分に対して)禁じている、拒絶から始まっているところだと思う。一切の拒絶なく、自分をありのまま愛していたならそもそもトランスジェンダーにはならない…。純粋な「好き」という気持ちだけでわざわざ同性愛を選択する人はほんの一握りしかいない。そこが問題なんだ。

 

ホロスコープに拘泥するのは生き方に正解を求めているからなんだよね。自分の人生がこうなるべきだという勝手な期待の押し付け。望みも何もかも、一旦すべて手放して、完全な自由に戻ろう。白紙の上にまた同じものが描かれるのなら、新たな気持ちで向かっていけば良い。自分で書いた下書きの線のせいで、かえってわけがわからなくなってた。

 

・今この瞬間の明晰さ、と書いてきたけど、明晰さや自由を感じようとしてそれがコントロールの思考になることもあると気が付いた。むしろ「夢を感じる」という表現の方がわかりやすいのかも。

創造(行動選択)の前に、大前提として観測が必要で、「動いているこの人を見ている」、そのことを知ること。

明晰さというのは、今この瞬間に打ち込めている意識のパルス回数のことで、これが高い方が良いに決まっているんだけど、仮に低くて夢の中だとしても(ワンテンポ遅れて脳が世界を構成する通常の生き方だとしても)、それでもそこに心があって、あなたがいる、という実感。何をしていようと、どんな世界を見ていようと、たとえ解像度が低くても、どこかにいつも満たされているよろこび、充足感、愛おしさを感じている、そういうこと。

 

・前々から何度も書いてきたように、大切なのは選択の内容ではなく選択するときの意識状態、よろこびの意図だ。選択の責任を負う覚悟、恐怖の受け入れというか、そういうとものものしくなるけど、要するにすべてを楽しもうという気概。どんな展開になろうとも、必要な体験であり、わたしはいつもサポートされているという信頼。

 

・心の声をきくというのは意識状態のフォーカスをそこに合わせるということと同じ。だから「きく」というより「なる」という方がしっくりくる気がする。心の声というと、まるで内容的に正解がそこにあるかのような印象になって、むしろ迷宮入りするパターンが多いかも。。

 

・あと五分で覚める夢というような明晰状態では、ふつうに他愛無い日常の行動もできるし、この人にはちゃんと過去も未来もあると感じるけど、それ以上でもそれ以下でもなく。優先されるべきは、この、夢の中の充足感だと改めて感じた。こういうときは「時の流れ」というものをあまり意識しなくなる。人生の流れというものにも、ある種圧倒的な信頼があるからこその、「無関心」になる。

イマココに集中するというと、「集中しなきゃ!」みたいな、この世界を鮮明に感じなければという欲やコントロールが働いて、かえってズレた努力をしていたのだと気づいた。空想の方に引っ込むのとも違って、この世界にログインしながらも少し引いているような感じ。完全な自由が、当然のこととしてある。種はあって、あとはそれが表現されていくだけだと知っている。これが「コントロールを手放す」ことであり、「フロー」なんだな。

 

・与えられた楽器を「その楽器らしく」奏でようというのはいかにもナンセンス。サックスは吹けばサックスの音がするのが当たり前だ。この、夢の中の充足感を感じている時には、「時の流れ」「人生の流れ」に無関心なのと同様に、「この器」に対しても関心や執着がなくなる。

 

・夢でパラレルセルフを感じたばかりの時ははっきりとこの感覚を持ちやすい。こうして思考もあって、現実を見ているけど、それでもどこかでこれも幻であり夢だと知っている。そしてその中にいることそのものをよろこんでいる。内容や体感いかんというよりも。ただ、あなたを感じている。

 

明晰夢にしようと思いすぎると体感にこだわったり、何かを為さなくちゃという行為の焦りにつながったりする。そもそも明晰夢であるべきという概念が縛りになってしまっていた。まずはこの夢の中で心の奥にある充足感を感じ、今ここに自分を定位することが先だ。仮住まいのように、とても儚いものだと知っていながら、所有のよろこびを感じているような不思議な感覚。ただここにいること自体によろこび、くつろぎ、すべてわかっているような感じ。

 

・こうなってみると、なにか外側の現象に安心を求めるという心理状態はおかしいなと思う。そういう安心感はあるのが当たり前で、何かによって確認する必要が本来はない。これは無条件の愛への信頼につながっているかも。いつもここに流れているものを感じるかどうか。ここにあるのはわたし=あなただけだ、ということ。数字やカードに意味を見出すのはそのあとのことで、趣味というか、遊びのようなもの。やっぱり、いつも遊んでいる。

 

・生きる目的は意図であり、それが成長であって、この人という花を咲かせるという充足感である。それは今もここにある、情熱であり希望であり、命を燃やしている感覚である。この人を表現すること。この人でいること。意図の通りに存在すること。生かされている、光、宇宙の火を感じること。

その手段となる人生のプロセス、道筋はなんでも自由だけれど、中でも充足感をわかりやすく感じやすい、明晰でいられやすい道というのがあって、小我はそれをできれば選んで歩きたい。だけど、「特定の何かを経験することがあなたの質問の答えではありません」。

 

・憧れの、尊敬できる、愛する人の隣に立つにふさわしい美しい女性になる。もしわたしがこの人を好きになる男性なら、この人がどんな風だとより魅力的に感じるだろうか?という視点。

恐れと向き合う強さがあり、心に従う素直さ、柔軟でオープンな発想力。何事も肯定し、受け入れる懐の広さ。目の前の人に「あなたはいるだけで素晴らしい!」といつも祝福を送れるような人。

すべてを見通すような洞察力の深さと、同時に今を楽しむ好奇心を宿したキラキラの瞳。堂々として美しいたたずまい、地に足をつけたしなやかさと軽やかな足取り。

人を照らす楽しそうな笑顔、人をあたためられる音色。水に火をいれる、陰を陽に、新たな美を生み出す。どんなときでも枯れない泉のような魂。青白い光を恐れずに、自らのものとして、内なる光のあたたかさでそれを表現する人。口角を上げて幸せそうに、澄んだ目で圧倒的よろこびから表現する。暑くもなく寒くもない、冷たそうな色調の白い光なのに芯からあたたまるような、プリズムが溶け込んだような複雑な光線。

 

・わたしはわたしの花になろう。ここにいられること、生かされていること、この音を奏でられるよろこび。心からの幸せと愛を表現したい。この夢をみている、あなたとわたしがここで共に在って、ひとつであるということへのよろこび、嬉しさを、うっとりと表現して生きる。ここにいる充足感があふれるままに。内側からのびやかに歌うように。わたしは火であり、わたしは土である。「意図して存在する」ということのすごさ、力強さ!「あなた自身が作品であり、アーティストでもあるのです」というのを思い出す。

 

・「わたしがさみしいと神さまもさみしい」というのはあらゆるレベルにおいて真実で、心に穴があいたように相手を信じられなくなったとき、自分の悲しく暗い顔と同じ顔を相手にさせているのだと思った。どのような表現であろうと、根底のところに必ず愛はあって、たとえ夜でも太陽はあると知っている、愛されていると思いだすこと。完全な自由の尊重、互いの心のままの信頼関係。愛を誠心誠意伝えたなら、あとは手放す(受け取り方はコントロールできないから。)改めて無条件の愛の強さを信じること、信じる方に突き抜けることの大切さを思った。

 

・旅人は少女に、少女の幸せを望む。少女は旅人が自分のもとにいてくれることを望む!

不安な顔をしたら、相手は不安になる。その人がその人らしく輝いているのを見るのがよろこびなのに、自分がそこにいるせいで、その人の美しい輝きが曇り、変質してしまうという、罪悪感のようなものを抱えるようになる。反対に、「あなたがそこにいてくれることで、わたしは一層幸せです」と伝えられたなら、自分がただ存在するだけでその美しい人を幸せにできると知り、互いにこの上なく幸せになるだろう。だから素直に受け取り、素直に望むこと。素直に幸せになること。

 

・愛されたとき、対価は要らない。花のように、見てくれて、触れてくれて、嗅いでくれてありがとう。うれしい。またそうしてほしい。と望むこと。相手に愛するよろこびをさらに与えること。輝くことが相手のよろこびになると知る。

対価を与えようとすることは失礼だし(払って終わらせようとしているようにも感じるため)、犠牲・無価値感・支配欲にもつながっていく。愛されるお礼に愛するのではなく、愛したいから愛するのであって、それが双方向の場合は奇跡のようなものかもしれない。

 

・関連して「相手に興味を持たなきゃ」というのも違ったなと気が付いた。私が本当に本気で心を動かされる人に出会えたらそれでいい話w そして、そういう相手がどんな人なのかを事前に考える無意味さにも気づいたw

 

・恋愛に関しても、「恐怖を感じなくて済みそうな選択」をしようとしていたんだ。それでは意味がない。心から焦がれるほどかっこいい、魂が震えるほど美しいと思う人、そういう人と対等なパートナーになることを望みます。お互いにお互いの魂に惚れ込みたい。海の愛を互いにもつ。そういう人に自分をさらけ出していく勇気をもつこと。

 

・未来に向かって球を投げ、それが未来から返ってくるような感覚。良い音がする。

 

・第三者への批判や悪口が目の前の会話の相手を潜在的に恐れさせる(支配する)のだと知る。

 

・わたしの望むことは、豊かな心で日々をよろこびで満たすこと、そして希望と情熱を胸にクリアなビジョンを持つこと。