アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年7月後半の日記 ~依存させる構図についての考察、『死後探索』シリーズ読書感想など雑多

・心が既に決めているスチル写真のようなものに対して自我が素直になった。開かれてきた。最近は人と話していても、わずかでも意識の片鱗を感じられるようになってきた。自由意志を失わずに夢を見よう。どこにいても何をしていても、安らぎと高揚を感じていたい。美しさを見出して未知を味わい続けたい。もうすぐ覚める夢と思えば猶更、未来を決めつけても意味がない。

 

・これまで火星、土星、太陽とあらゆる惑星を男に投影(丸投げ)してきていたと改めて思った。わたしは一人でも生きられるし、自分一人でもどこまでだって行こう(土星)。そして相手を完全な状態として愛し、信頼して見守る(火星)。自分の夢を叶えるのは自分で、自分の夢を決めて思い描くのも自分だ(太陽)。当てにしない、欠損を見出さない、干渉しない、利用しない、委託しない、期待しない(条件を提示して駆け引きを始めない)、期待に応えようとしない(自己価値の決定権を相手に委ねない)。

 

・期待に応えるかどうかの選択を完全に自分で、自由な立場ですることで「対等」な愛情表現になる。完全に自由な者同士が特別に結ばれるのは良いものだ。

 

・支配欲こそ手放すべきパターン。この欲を「どのように健全に満たすか」を考えていたけど、それだと満ち欠けから抜けられない。欲も衝動も採用するかどうかはわたしが決める。パターンを手放す唯一の方法は、瞬間に生きているということを受け入れること。悩みを「なんとかしよう」と考えれば考えるほどそこにフォーカスされ、悩み続けて抜け出せなくなる。未来を決めつけようとし、因果を支配しようとする。思考は何も解決しない。観察=愛=知覚だけが脱出のカギだ。

 

・愛し方として「対象のあらゆる在り方を敬うこと」「枠外に行くことを許すこと」というだけでなく、愛され方としても、「条件付きかのように受け止めないこと」「自らが枠外に行くことを恐れず、相手の(無条件の)愛を信じること」が大事だと気づいた。

自分が自由であることを選ぶのは、相手の愛を信じることでもある。自分を愛せる選択(良心、内なる導きに従った選択)は、それを選ぶということ自体が相手への信頼の表明になる=愛情表現のひとつになる。そして、同様に、その人のあらゆる在り方を敬うことは、その人の良心を信じることでもある。

 

・庇護の対象となると枠外に行くことを許すのは危険の容認(死の容認)になる。やはり土星の愛は難しい・・・。

 

・飢えた者にパンを与えることで、依存させ支配する構図。その人が自らを養う(自分を愛する)ことを学ばなければ、その人のためにはならない、救われない。相手の期待を読み取る能力と、相手の欠損を見出すスタイルで、相手の飢餓感を巧妙に引き出していた・・・怖。そして自分自身が、パンを提供しなければ寄り付かれないのだと思い込んでいた。相手の愛をその程度だと決めつけていた。失礼極まりない。好かれようという餌やりをやめる。

 

・「何もあげられるものなどないのだから来るな」という人は、パンなしでは自己価値ナシと表明していて、実はまったく同じタイプの、見かけ上は正反対の人を引き寄せる。彼らは「来るな」と言われるとますますそこに飢餓感(欠損)を見出して、与えようとする。無条件の(無償の)愛のフリをして、自分の「安心」のために囲い込もうとする。対価関係を基軸とするタイプは、自分が与えている立場にいる限り「安心」できる。従者タイプも、実は本質的に支配者なんだ。

 

・宗教家や占い師、スピリチュアリストのおかしなところは、むやみにパンを与えるからだと説明できる。長期でも一瞬でも、いずれにせよ相手を幻惑し、救いを「期待させる」ということは、自分でまだパンを作れない人を恐怖と依存のどん底に陥れてしまう。パンを買い求めさせることでエネルギーを得る商売・・・。

 

・とはいえ、支配しようとせずに一人ただ突き抜けていたとしても、その姿を勝手に崇拝して寄り集まってくる人は後を絶たないということも、カリスマ的な人を見ると思う。結局は取り合わなければいいだけで、必ずしもすべての非が本人にあるわけでもない。逆に突き抜けている人を「崇拝」すると、「対等」な愛情表現から離れてしまうということにも気づいた。崇拝は失礼な行為だ。餌やりではなく思うままの祝福を伝える人でありたい。

 

・崇拝は従者になることにつながり、それは相手のためではなく自分の安心のため。それに崇拝はある意味、相手を枠の中に押し込める行為でもある。(相手が全く気にしなければあまり機能しないにしても、アイドルはしばしばファンの期待の監獄に入りやすい。)パン、居場所や価値の承認を求めて、「利用しあう」上下関係、支配欲=被支配欲。崇拝、従属は「あなたを利用したいです」という表明だ。

 

・ただ納得したいだけの因果の支配の願いは往々にして叶わない。納得したいのは予測が外れることの拒絶の裏返し。愛を試されていると言っても良いかもしれない。

 

・ワクを打つ選択にも理由はないのだと悟った。自分の幸運の理由を知ろうとしていたんだ、理由を知り幸運をコントロールしようとしていた。不運を恐れ避けようとしていた。「ああすればこうなる」と法則を知って安心したかったんだ。選民思想もこういうところから来るのだろうな。でも【運命の輪】はそんな法則とは無関係。理不尽の極みが真理。

 

・鼻をとるために何気なく当たり前のように手に取るティッシュペーパー1枚がどれほどわたしによろこびを与えてくれているかに気づき深い感謝を覚える。

 

・先生とのコミュニケーションは、わたしの意識上でのわたしと先生の思考の共同作業なんだ。人類も本来は「テレパシー的な種族」だ。エンパスはデフォルトだ。

 

・思考感覚は脳みそのようなボールをツンツンと指でつっついて転がしていくようなイメージ。勝手に転がっていくのをただ見ているのが、寝入りばなによくあるような、ある種のラジオ受信状態。

 

・毎瞬間、今ここにしか自我がないことを強く感じる。今ここにいるわたしが、一体いつからここにいるようになったのか、よくわからない。瞬間瞬間にオンタイムで集中すると、何かの意図が火花のように散り、それをアストラルの霧が素早く吸収しているように感じる。今までは霧の残滓をワンテンポ以上遅れて吸い込んで生きていたような気がする。

 

・願うことへの抵抗(高次元ED)が再発したとき、わたしは新入社員のようなものだと思った。新入社員のミス、失敗は許され、愛をもって育ててもらえるのだということを、わたし自身が受け入れようとしなかったと気づいた。申し訳ないからと言って働く気力をなくすのは会社(=トータルセルフ)にとっても不利益で、愛を拒絶する行為だ。失敗してもまた立ち上がることが何よりも恩返しになる。愛を受け取ろう。

 

・この人生というゲーム、この時代のイベントはわたしに設定されているだけでなく、わたしたちチーム全体のためになっているのかな。

 

・怒りでも恐怖でもなく、愛とよろこび、美への賛美や祝福をかきたてるような「波紋」を起こしたい。そういう扇動をしたい。

 

・ネガティブなことが極力少なくなるように、祈りながら条件を増やそうとしてしまう。それより、ネガティブな事象・出来事も乗り越える勇気と力を願おう。良い夢にするのはわたしだ。

 

・愛のエネルギーは知覚を開く。むしろ、明晰な知覚を以って、意識とその投射である世界を愛することが愛のエネルギーを強めるともいえる。

 

・この人(私)のこの体を、愛する人の体のように扱うようになった。食事も風呂も歯磨きも、ただの習慣や我欲の満足ではなく「愛しているからする」「よろこんでほしくてする」ようになった。自分の足こそキリストのおみ足だ。最近あった、I as man 男性性の半身との融合イベントも関係があるのかもしれない。以前外側に置いていた器は今やこの肉体に重なっている。ときどきそれを意識すると、それだけで幸せになる。

 

・愛の対は恐怖ばかりではない。本当の「対」は「愛を知らない」ことだと、ブルースモーエンの本に書いてあって、なるほどな・・・と。一度愛を知っている、愛のもとに生まれた地球の生命系の魂は、どんなに見失ってもその内側にかすかな光を灯しているものなんだろう。ランプシェードのように、あるいはときに遮光カーテンのように、信念や行動パターンが光を覆い隠してしまうけど。無条件の愛=PUL=pull 神のもとへ帰る道しるべとなる引力が、弱くなりすぎると「戻ってこれない探査機」=「失われた魂」になると。本のおかげでいろいろ整理できた。

 

・創造=方向付け、その指針としての良心。美への指向。「すべてOKだが、できればこうあってほしい」という在り方でいいんだなと改めて理解。すべてを許す天使でも涙することはある。

 

・このキャラはこれまで作られたキャラを元にミックスして新しく作られた。ストーリー展開のために生み出された。大まかなアウトラインやストーリー上キャラが果たす役割は決まっていても、キャラには自由がある。だからこそ作品全体が「生き生きとして」作者自身も面白いと思える作品になっていく。この瞬間は、全何十巻もある作品のほんの1ページ、1コマにすぎないけど、今ここだけは常に新しく描き足されているコマである。単行本やコレクターズ版のように、バージョン違いがいくつあっても。すでに何度も描かれたことのあるシーンであっても。今この瞬間は新たに描き直されている。加筆修正は結末すら変えうる。

そして他の全く異なる画風の作品も存在し、それらの全ての表現が、今ここで次に生み出されるストーリーの背景となる作者自身を構成している。描きこまれた「体」では紙面を超えることはないけれど、そのキャラを構成する概念は、作者の頭の中を通じて(アパーチャー)他の作品に映し出されることが可能で、別の作品に改めて描きこまれることでクロスオーバーのようなことも実現する(異次元体験)。

作者は生まれた者すべてを等しく愛している。生まれた者それぞれが自由に自らを表現し、だからこそ次のコマは未知であり、未知は描かれた瞬間既知になっていく。

作者がキャラのセリフやコマを描きこんでいると同時に、キャラが生き生きとすることで作者にセリフやコマを描かせているともいえる。だから作者とキャラは一体であり、本質として創造するもの。

 

・脈絡のないビジョンの洪水のあとに、普段の秩序ある意識活動に戻ってくるととても不思議な感じがする。ひとつ夢が叶った。作者、作品すべてを見通しながら、キャラクターとして生きる、OLMのアランプライスみたいになるという夢。少しの虚しさに苦笑いしながら。

 

・以前から課題になっていた「乳化剤」問題は、自由意志と引き換えにある種の愛の感覚を高める(近くを明晰にする)チートコマンドなんだと改めて理解。感覚だけが明晰な、悪夢、完全に悪夢。自分が自由を手放す=神の自由も許せない=うつろいが受け入れられない=逃亡的、駆け落ちのような、地に足のついていない、幼さ。