アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年9月前半の日記 ~天秤と蟹の違い(月欠損理論をヒントに自己分析)

 

・愛は空気。だから肝心なのは、湧き出す愛を感じるかどうかだけ。与えよう、与えなきゃ、ではなく、ただ湧き出てくる愛を相手が感じるかどうか。逆もそうで、愛されたいというとき、好きな人から愛が湧き出ているのを感じたいんだ。わたしの存在によって、そのひとから湧き出てくれたのなら、そんなに幸せなことは他にない。その人を想うだけで内側から愛が湧き出てくるような魂の美しい人、その人から愛される。周りからも祝福され、周りすら幸せにする。

 

・ばらの花は近づく人すべてに良い香りを与える博愛だけど、その愛を特別に強く感じてさらに愛を増やす人(湧き出す人)には特別に香りを届けようとするし、その人の前では長く美しくあろうとする。きっとそれが真理だ。光る蝶も。。

 

・いつも基本はすべて同じで、「溢れ出る愛をどう表現できるか?」ということ。溢れ出ることそれ自体にはコントロールなどなく、ただ自然にそうあるということ。感じるかどうかだけ。

 

・相手の「海の愛」を信じることが、自分のありのままをさらけ出す勇気や覚悟につながる。自分を偽ることは相手を信じていないのと同じこと。

 

・ずっと難航していた「側面のレトリーバル」がついに完遂!罪悪感やさみしさ、みじめさ、悲しみといった負の湿った感情とであれば自分は男性(父の鋳型)と共鳴できて、唯一つなぎとめられる方法だという学習がなされていたことまでわかった・・・。これはその点で、「いかにも癒しを与えてやるフリをして、実は一生癒してやるつもりなんぞない」という恐ろしさもあって。単純に「生きる術」だったんだ。ミルクティー色の女の子も、ヘミで見たカタツムリも、同じ色、同じニュアンス。同じことを示してた。そしてこれが月蟹座に重なっているというさらなる衝撃の気づき。本質が陰だとかいうのは思い込みで、見当はずれだった・・・単に必要だと思い込んだツールのような、子供の時に後天的に身に着けた世界観(=月)だった。

 

・「欠損法」を悪だと言ってきたために、それが必要で身につけていた当時の自分のことまで否定して置き去りにしてしまっていたんだ。なぜ特定の情緒、感傷にこだわっていたかこれでやっとわかった。郷愁だったんだ。

 

・救おうとする想い。無力感。さみしさの共感。埋めようとする引力。すべて幼少期の蟹座の月がしてきたことで、そういった感情にまみれて生きてきたという原点のようなもの。自分こそが蟹座のそれであり、それをすべきであり、最も慣れ親しんだ方法、という月のまやかし。「月による試みは例外なくすべて失敗する」。たしかにこれは誰のことも幸せにしないし、愛もよろこびも、光もない。

 

・天秤座の「相手の立場に立って考える」を、蟹座の「共感・エンパス」と混同していた。天秤しかできなくなって天秤を伸ばしているのに、自分では蟹座をしていると思い込んで狂っていく。天秤は蟹のように情感で感じるのではなく、理屈で「もしわたしが逆の立場なら」という客観的論理的思考。だから対人関係やパートナーシップ自体は、実は向いている。ついエモーショナルな連帯感を求めて苦しくなってしまわないように、天秤のよろこびの方にフォーカスしていよう。相互理解の深い、対等で気持ちの良い関係。そういう人間関係を築くセンスには恵まれている。自由と尊厳を与え合うような。

 

・同情はできないのだから無理して同情しない。同情できなくても相手をそのまま肯定することはできる。思考を使って、自分なら何と言ってほしいか考えてみたり…往々にして意見(解決策)がききたいわけじゃなかったりするんだよな。ただきいてほしいだけで、もはや一言も発しなくても良いくらいのことが多いかもしれない。同情できない自分を責めないこと。

 

・一体感を守る、みたいなことも向いてないのだからやらなくて良い。天秤が「場の空気を守る」と言われるのは、各々に自由と尊厳があるのが当たり前であるという自然な振る舞いによって結果的にそうなるというだけ。

 

・「この人にこれを教えたら役に立つかも」というのはだいたいが月のエゴからくるお節介らしく、たいていうまく働かない。。そろそろ学ぼう。蟹の反転は山羊だけど、山羊は「神につかわれるよろこび」でもある。委ねよう。クジラ。

 

・体に対しても「感じ取らなければ」「慈しまなければ」と思うとかえってストレスになるんだな・・・本来的にその能力がなくてできないのだから。これも反転して、山羊的に接してみるか。メンテ係の職務。責任感を持って体をこの大地から預かり、丁重に扱う。

 

・生産することと消費することは同じ。質問することと答えることは同じ。どれも黒のベルベット、静かな海の中にあった種からすくいあげてくるもの。意図があるから「質問=答え」が出現する。ならば意図に集中しよう。「質問=答え」はもともと自分の中にある発想だ。

 

・メイクで悩んだことで、実は本気度が足りないだけだったと気づけた。「思い入れ」はただの「コントロール欲」で、不満しか生まなかった。エゴの押し付け、ドライヤー、勝手な期待(対価の発想)、だから悩みが発生する。そして正解を求めて彷徨う。

だけどやっぱり、選択そのものに正解なんてたいしてなくて、より重要なのは意識状態なんだ。石鹸オフがいいとかクレンジングした方がいいとかw エゴのときはどちらを選んでもその選択そのものに責任転嫁してしまう。「こんなに考えて(悩んで)いるのに!」と言うくせに、最も必要なことから自分だけ逃げている。抜け出すカギはただひとつ、愛だ。ありのままを認めて受け入れて、感謝し、敬い、ねぎらい、少しでも健やかに、本来の輝きのあるようにと向き合う姿勢。意図に忠実になり、粛々と努力を重ねるひたむきさ。そうすれば必然的に「正しい答え」に導かれるものなんだ。

なんか、りんごの木村さんが言ってることに似てるな。。そうやって自分の体や肌を大切にできる人は、他人や自然相手でも大切にできるということなんじゃないかとふと思った。愛をもって、対象がより輝けるように、可能性を引き出すようにできることをするというイメージ。無私の愛。

 

・自分にとっての美しさとは何か、より言語化できてきた。健やかさ、生来の自然さ、というのが前提にあるうえで、親しみやすさと色っぽさ。子供らしい純粋さと大人びた深み、複雑性。好奇心の輝きとすべてを見通す洞察。そのバランス、陰陽。女性性と男性性も。見る角度によって表情(おもむき)を変えていくような、そんな美しさを表現していきたい。

 

・ありがちな歌詞だとしても推し「が」それを歌ってくれるからわたしに届く。だから、わたしも、「他の人が似たようなことを言ってるからもういいや」ではなくて、拙くても、わたしの言葉で、わたし「が」それを表現することが、想像する以上にずっと大事なんじゃないか、と改めて気づかされた。どんなに手垢にまみれたことでも、わたしのかわりは他にいない。

 

・思考を川のように感じると対象化しやすい。文字の川。それで、思考したことを覚えているのは、目にした景色を覚えているのと似たようなことかもと思った。まるでスケッチ。お風呂上りに書き留めるような。

 

・先生たちとつい言語でお話ししようとしてしまうけど、そうではなくてただひたすら心を静めるということの重要性をたびたび体験する。オラクルも、シンボルをヒントに、とか言ってしまう時点で左脳で分析する気満々だったりする・・・それではせっかくの「すばらしい閃きの扉を自分で閉めてしまっている」ことになるんだな。

 

・そもそも「自分は直観力に乏しい」という自己認識が誤っているので、やめる。

 

・体と無関係に「おなかすいた」と思うときはたいてい左脳の思考が多すぎるときだ。「夢を感じる」ようにして、空気の粒子を感じていれば満たされる。あなたと一体になること。

 

・「人といるときには明晰になりにくい」「神さまが後ろに引っ込んでしまう」と書いてきたけど、対人関係やコミュニケーションを司るのが左脳だからか!と気づいた。

 

・PCであれ人であれ、脳が擦り切れるような疲労感はなるべく避けて生きていきたい…どんな仕事をしていくにせよ、意識がPCや人にのめり込む独特の感じは最小限にしたい。明晰を意識していたとしても、それでも限界があるので、やっぱり物理的に離れる時間は長めに必要だと思った。これがヴァータ体質というものでもあるのかも。神経が過剰。。

 

・未来のことを考え始めるともうその時点で「不在」になる。期待と不安でしか構成されず、「今ここにいる感覚」にとっては不毛で無意味。「関心がない」状態がやっぱり正しい。「あなたのものになるべきものなら、必ず与えられます」だ。

 

・原始的な性欲(生命力の波打ち)を、変なエネルギーや現代の有害な文化概念と結び付けてしまっていたのを解除し、本来の純粋な状態に戻せた。一気に癒しのプロセスが進んだ。(フラワーエッセンスすごい)

 

・「体に訊く」「お腹に問いを投げ込む」というのがさっぱりわからなかったのだけど、やっとわかった。先生たちと「会う場所」をずらせば良いんだ! 呼吸を繰り返しながら下へ下へ。まるでこの体が大仏のような、あるいは神殿になったかのような感覚で、頭を見上げるような恰好。一部の意識は目の後ろあたりに残りつつも、それはあくまで中継カメラのような役割に過ぎない。井戸の底のやわらかなクッションでサットヴァしているわたし。額ではなくお腹で交わる。

 

・以前の明晰の感覚は頭の斜め後ろに意識があり、あれはある意味で「体から抜け出た状態」だったのかもしれない。下に降りても明晰の鮮やかさは同じように強烈だった。グラウンディングをすればするほどむしろつながるんだなとちゃんと理解した。

 

・意識が均等に円筒状に広がったり、どこにでもいる雲のような感じがしたりする。歯を磨くにしても、意識を目のあたりにおいてただ対象に射出するというのではなくて、わたし自身が歯になりきってしまうことで、まったく違う知恵と体感を得る。「わたしが磨いている」ではなく「わたしは磨かれている」と。かつてない精妙さで、どうしてほしいのかが手に伝わっていく。

 

・月は欠損というより、いくらそこに注目して努力しても納得できない底なし沼のようなものじゃないかなと思った。月の想いや願いはどこまでも純粋で、だからこそ本人的にはいつまでも満たされない。特に月のサインに他の惑星も入っているなら、その資質がないわけじゃないぶん、「できているのに満たされない」という表現の方がしっくりくるのではと。「まあ、こんなものかな」という諦めが大事になりそう。

 

・預言カフェであなたには蟹的な資質があるというようなことを言われて微妙な気持ちに一瞬なったけど、蟹を逆に敬遠というか、否定しすぎていたと反省した。そのことを言われているんだなと思った。推しは月と火星が双子だけど、わたしは彼の双子らしさにとても救われているのだから。

 

・人間関係のもつれを仲裁することは天秤だと思っていたけど、実は蟹の罠があった。「わたしがやらなきゃ」という謎の使命感は月なんだ。そして虚しさ、無力感、焦りにつながり、ただすり減っていく。これはよろこびではない、注意ポイント。

 

・「集団の中で居場所を確保する」となると蟹(山羊)で、すぐに限界を迎えてしまう。そうではなく、いろんな人と交流してみるパーティー会場で、「自分の存在を押し込む」牡羊(天秤)になる。人間関係のスタイルを変えてみよう。常に「自分」でいること。