アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年7月前半の日記 ~エンパスの問題点、次の瞬間はすべて未知、意図することと結果を求めること

・「これからどうやって生きていこう」ばかり考えて、馬鹿みたいにエゴの次元に降りて疲れてた。ひとたび予測の中に生き始めると、ポジティブな予測であれば想像して満足するか見届けて納得するか、ネガティブな予測なら排除し、避けられたことを満足するようになる。

結果を求めるからこそ得られない恐怖にもなるし、とにかく気力が出なくなる。心が不在だから。やりたいこと、望みを「探して」その理由や目的、説明を求めていた。そんなもの何もいらなかった・・・

何の理由もなく意図だけで幸せになれて、何の理由もなく愛が存在するように、「やりたい」という望みにも理由は要らなかった。心が決めるから。理由を語るほど虚しいことはない。

 

・「こんな味がするだろう」と結果を予測するのではなく、「どんな味がするんだろう?」という好奇心だけでいい。”未知”を食べたいという心の渇望に気づいた。気づかないふりをしてたから疲れていたんだ。何もかも放り投げる。今私は夢をみている。「次に何をしよう?」という、明晰夢の中の高揚感だけでいい。「今ここ」を紡ぎ続ける。

 

・意図するのと結果を求めるのとは違うという大前提を見失ってた。意図は、その瞬間から完全なプロセスの内部にいて、その瞬間から既に満たされている。満たされていて、なおかつ「動く」という【世界】。今を否定するでもなく、今も完璧で、なおかつ「理由のない呼びかけ」【審判】に応じて踊りだす。わたしはわたしをよろこばせたいという意志さえあれば。わたしは明晰でありたい。だから明晰でいる。

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・わたしは蝶のように羽化した「この人」を見てみたい。この人にどんな体験をプレゼントできるだろうか?そういう発想を持つと、先生たちの近くに並んだような感じがした。

 

・漠然と不安になるとき、脳は大丈夫な理由をかき集めて納得しようとする。「○○だから今はこれでいいんだ」とうるさくしゃべり続ける。しかし、大丈夫かどうか、心に沿っているかどうかは心が決めるので意味がない。

 

・以前「どうしたいか」という問いにはアストラル体(欲望)ではなくメンタル体(精神)で答えるべきだと書いていたことを改めて思い出した。またしても欲を探してきて満たそうとしていた。欲は際限がない。安心したい、認められたい、好かれたい、すべてに際限がない。(特に「安心したい」というやつは手ごわい。いかにも正当な感じがする。)いずれにせよ、欲を探して満たそうとすることは不足感にフォーカスするのと同じことになる。満ち欠けを繰り返す。同じパターンを繰り返すだけ。

メンタル体に問われているのだと気が付くと、理由も説明もいらず、すぐに見つかる。最初からそこにある。それは不足感をもたらすことはなく、心の然るべき場所にセットするだけで、その瞬間から幸せで生き生きとするんだ。

 

・心は「成長したい」だけが動機で(エントロピー)、その実現のための最適な方法を知っている。脳の予測では絶対にわからない機序。だから心に従い、委ねるのが一番早い。目の前の出来事を勝手にひとまとまりに区切って意味や成果を求めても無駄。点描画の1筆だと以前書いた通り。

 

・先生*1はわたしが気づかないものを指さして示してくれる。そんな先生と共にいるのが楽しいのは、未知であふれた世界で生きたいという根源的な想いと同じなんだと思った。わたしの望みは、世界と歩くことだ。神さまと共に在ること。美しいものであふれている、ギフトのラッピングを開けるかどうかはわたしに委ねられている。

 

・社会をひとつの有機体に見立てたとき、いろいろなエネルギーが縦横無尽に循環していて、個人(や団体)はそこにストローを差し込んで生計を立てる寄生虫のようなもの。ストローを自前で用意することが「土星を使う」ということだし、どこに差し込んでどんなエネルギーをよりどころにするかは選べる。

だけど、与えられた役割をこなして認めてもらうことと、存在を祝福され愛されることは違う。そこが混同された子供のままだった。

 

・「シンクロニシティの波に乗れたら良いことばかり起きるはず」というのは違って、それこそ理由のない(わからない)【運命の輪】を受け入れられるかどうかという話になってくる気がする。

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・潜在意識(ハイヤーセルフ)が顕在意識に降りてきて認識・自覚できるようになるまでの時差を縮めたい。エゴはつくづく無自覚に過去に生きる。

 

・どんなに予定が充実して将来のビジョンを持っていようと、「今ここ」に生きていないなら19のときと何も変わらない。他人に対する羨ましさや後ろめたさは砕け散った。エゴ優位にタスク処理ばかりしてのめりこむことと、今ここを本気で生きることは違う。

 

・「一人の人間の中にも望みはたくさんあるものだ」と書いていたけど、その場合の望みはアストラル体で、エゴが自らを守るために大量に分裂させた結果なんだと知った。本当の自分(精神)はひとつで、それは言葉ではとらえられない。理屈も通らないし、「常識的」でもない。だからエゴの方は、仮にメッセージを受け取っても無視したり否定したり、あれこれ理由を付けて不安を並べ立てたり、対象を庇ったりして、次々と別の考えを分裂させる。

アストラルレベルで無理に一つにまとめようとするのは違う。それでは演奏者が出しゃばって仕切り始めるようなもの。指揮者を自分の中に見出さなければ意味がない。指揮者こそが一望する存在で、分裂しているときこそ腕の見せ所になる。

 

・時の流れも、この空間も、夢の中でふと不思議に思うときのように「非実在性」を意識すると途端に明晰になってすべてが自由で幸せだと思いだす。

 

・時空間が非実在的なように、この思考も言語もただの感覚でしかなく、非実在的で不確実なものだと知る。この人は今当たり前のようにとめどなく思考を感じているけど、少しここから離れると全く別の世界での思考をラジオのように聞く(感じる、観察する)ことができる。

(今気づいたけど、昔授業中に寝かけるとまったく謎の意味不明なメモがしてあったのってそういうことか・・・)

 

・火→水→風→土のプロセスとして、精神・直感(火)がアストラルの欲(水)に浸透し、そこからようやく言語化・計画(風)されて、現実化・具体化(土)していくという流れ。「火はあるか?」(笑)

 

・のめりこむのはアストラルに振り回されること。夢の中の出来事、人の感情、自分の欲望(ホロスコープに示されるようなパターン)に、いちいち”反応””対処”すること。自由意志を行使している「つもり」になって、行使できていないこと。

「のめりこんでいるときは楽しいのに、あとで虚しさが残る」恋愛、仕事(タスク処理)、友人との遊び、ゲーム、セックス、あらゆるすべてに共通するもの。「良い夢」と「明晰夢」の違い。

これは明晰かそうでないかの二択というより、グラデーションのように間に段階がある。意識の片鱗を感じながらストーリーの中を進む夢、ストーリーの全体像をなんとなく知りながらストーリーの中をドキドキして進める夢、一瞬でも頬に風を感じたり不思議な空を見たりしたのが印象に残る夢、いろいろ。

幸せな夢か悪夢のどちらがいいか?と言われたら当然幸せな夢を見たいけど、明晰の感覚・意識は良い悪いを超越している。だから人生の内容にも本来は良い悪いがない。明晰かどうかが重要。

 

・「希望」と「期待」は違うという話を聞いて、意図するのと結果を求めるのは違うというのと同じだなと思った。意図することはその瞬間から完璧なプロセスの中にいて満たされる=どういう状況であろうとも”明晰”になること。今ここで起きることをすべて受け入れ続ける、宇宙への信頼、ハートチャクラを開く、神に対する無条件の愛。

反対に、予測可能性の枠の中の世界は、脳が勝手に作るストーリー=過去か未来にしか意識がなく、枠の外への恐怖=ハートチャクラが閉じた状態。

期待と不安は必ずセットでもある。不安なときは後者に陥っているサイン。期待は条件付きの愛とも言い換えられる。

 

・人のアストラルに振り回される話で、「好かれよう」「うまくやろう」というのがあるからのめりこんじゃうし他人軸になるんだなと思った。「他人に合わせることで意識レベルが下がることへの抵抗」と最近書いたのは、その対象の”期待”に応えようという発想から生じる。誰かの”期待”の枠の中にとどまる必要などなかった。

 

・自分を貫くということは、できなければどこにいてもできない。自分が自分でいられないことを他人や環境のせいにしていたと気づいた。自分を貫きやすいように、周りに「配慮」してもらいたい→だから従者が欲しいというような発想・・・そして実際に理想的な従者が出てきても、自分が他人軸のままであることは変わりないので、結局相手の”期待”に応えようとしてしまう。”期待”に応える形で、自分らしくいる「フリ」をすることになる(笑)相手の頭の中の枠に閉じ込められる。

 

・根っからのエンパスだから仕方ないんだと思っていたけど、人に合わせるかどうか自体が問題なわけではなかった。合わせるというエンパスの能力を使う「動機」がおかしかったんだ。嫌われる、呆れられる、見捨てられる、不穏な雰囲気になることを恐れる、恐怖ベースだった。恐怖ベースが嫌だからと「合わせない」「関わらない」と決め込むことは、結局他人軸のままで変わらない。恐れがなければそもそも「合わせたくない」という発想自体が出ない。合わせるか合わせないかは完全に自分の自由だから。合わせたければ合わせれば良くて、よろこんでハーモニーを奏でる。つまり、合わせていても自分軸であり、「意識レベルが下がってしまう」なんてことはない。

 

・合わせるかどうかの選択をよろこびをもって自覚的に行うのは、夢の中でいかに明晰でいられるかと本質的に同じだ。鏡の中の虚像は実像を動かせば動く。自分の楽器を自分で奏でている自覚。自由であると思いだすこと。

 

・人の期待に応えることと生存本能(恐怖からの防衛本能)が結びついてしまっている。もし国がベーシックインカムをくれても、不安は消えないだろう。国の言う通りにしなかったら(国の庇護を受けられなかったら)終わりだという感覚が残るから。

村に置き換えれば、村八分が怖くて隣人の顔色をうかがうというやつだ。一人では生きて生きないという土星(サタン)の智恵、根っからの日本人気質、同調圧力・・・

 

・すべては宇宙の愛の発露。手段に執着しないことは予測可能性を手放すことに通じる。

 

・自分が一番自分に”期待”していた=自分を枠の中に閉じ込めていた=結果を求めていた。プロセスに委ねるとか言い続けていたけど、自分こそが勝手なイメージを持っていた。なにか人生で成し遂げないといけないとか、与えられた役割を果たす人生を生きないといけないとか。そんなの全部自分が自分に押し付けてるだけだ。道理で今まで”不安”だったわけだ。

 

・「この人のストーリーを進めないと」と思ってた。どこかに正解があるような気がしていた。わたしはこの人のことを好きにしていいのか!衝撃すぎる。本当に自由なのか。今からわたしは何をしてもいい!!ああ、明晰と高揚の感覚にこうしてつながるのか。

 

・どんな人生でも良いのだと思った瞬間、重いコートを脱いだようなすがすがしさ。人目を気にして、認められたくて、過去と未来の往復しかできないエゴは、今の今まで「何かになろう」「生き方を見つけよう」としていた。それは家族や友人たちに去らないでもらうためでもあったし、何よりハイヤーセルフ自身に認めてもらって、シンクロニシティによって「利益を得るため」だった。

エゴはいまだに「タダで生きていて良いはずない」と思い込み、生きていることを宇宙に祝福されるには宇宙の”期待”に応えなければならないのだと考えていた。宇宙、神さまが「自分らしく自由に生きてほしい」というなら、そうしなければ援助が得られない、と。援助を得るため、生きるために、期待に応えなければと。対価関係。

 

・神さまに味方であってほしいという”期待”をわたしの方が押し付けていたんだ。災いが降りかかることを厭い、平穏と幸運が続くように願った。そしてそのためにはわたしが「正しい生き方」をしていないといけないのだと。見返りに執着し、因果を支配したがった。だから幸せであることに理由を求める。「わたしは今正しいから蝶が飛んでくれたのだ」と。そうではなくなったときを恐れて無意識で不安を抱え続ける。見守られているかどうか何度も確認したがってしまう。

「良い子にしていたらサンタさんがプレゼントをくれるよ」→良い子でいなければプレゼントがもらえない、どうしよう、わたしは良い子でいられているだろうか?という本末転倒。

 

・わたしが宇宙に対して完全にすべてを受け入れる用意ができたとき、はじめてわたし自身も完全に自由になれる。神さまは完全に自由で、そんな神さまを愛している。「その愛おしい歯で噛み砕いてもいい、あなたのすることはすべて、わたしを幸せにする」と、その詩を向こうからそっくり返されたのはそういうことだ。完全に自由だからこそ、こちらを向いて微笑んでくれたときの幸せは何にも代えがたい。

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・「今ここ」の連続には何の理屈もつながりもなく、完全に自由に毎瞬間創造されている。次の瞬間はすべて未知なので、毎瞬間高揚する。どんなに慣れた環境も、何度も聴いた曲も、次の瞬間すべてが新しく生まれているとわかると、マンネリや飽きという概念は存在し得ず、ものすごく明晰になる。「動いている自分を観察する」という以上に、「毎瞬間生まれる世界を観察する」、その「世界」の中に、この人、この体も含まれている。

 

・未来を決めつける(決めつけようと努力する)のがエゴ。「将来どうなりたいか考えないといけない」という呪縛がすごかった。意図することと、未来を決めつけることを完全に混同していた。SSRの自分に全託して、エゴはハンドルから手を放した。

 

・「夢で何をしていても内容関係なく明晰なら満たされる」のと同じように、「どんな人でも条件関係なく明晰でいられる間柄なら満たされる」のかもしれない。「良い夢がみれますように」というのと「良い人に出会えますように」というのは同じ。悪い夢も夢だと気づいて意志が発揮できれば悪夢にならないように、こちらが意識を保てたら利用してくる人は勝手に去る。その人が何を求めているか知ったうえで、応えるか応えないかはこちらが選択できる。

 

・出会いの時点で「第一印象を良くしよう」と相手の脳内イメージの監獄に自ら入っていたんだと気づいた。相手はわたしが予測の中におさまってくれて、期待に応えてくれるから”安心”するし、「思い通りになる」と感じる。そうやって今まで自分で首を絞めてた。思い通りにならない人=ありのままの人というのは恐怖ベースの人にとっては恐怖を感じる。だから勝手に去ってくれる、自動的に選別される。

 

・こちらが周りの人に”期待”をする、条件を提示すると、それに応えようと条件に合致するフリをする人が集まってくることにも気づいた。そうやって対価関係、見返りを求める支配の階層に落ちていく。自然体でいられた人のことを思い返すと、特にその人に好かれようともしなかったし、その人に”期待”もしていなかった。

 

 

*1:守護霊のような、霊的世界でよく導いてくれる存在