アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年10月の日記 ~動きながらサットヴァ、奉仕とバクティ、人類意識

 

・あと5分で死ぬならどうするか?と考えたことで意識レベルを上に引き戻せた。もうすぐ覚める夢と思うことで存在感覚に集中できる。

インド哲学で言うところのタマスとラジャスばかりの状態から、サットヴァを思い出せる。何をしていようが、すべてが至高になる。

 

・「習慣」「反復」という概念は、オートマタにも「土」の要素にも同様にあてはまる。けど、オートマタは空っぽで霊性がない。「土」の要素の本来あるべき姿は、「習慣」や「反復」によって物質に霊性を宿すというもの。

 

・大して真意でもないのに軽率に否定的な言葉をしゃべると腹の底が冷えたり気分が悪くなったりする。今までのような感覚でいてはいけないと思った。自分の言葉に言霊が宿るようになっている。気を引き締めねば。

 

・誰かを否定的にとらえるとき、自分にそうあることを許していない痛みがある。「こんな人になってはいけない」と。いいんだよ、そんな人になっても。人を許すことは自分を許すこと。

 

新約聖書のテーマは「他の人々が生きることができるようにするために生きる」ことらしい。他の人々が、物質的にも、霊的にも、生きることができるように。

最近になって利他や奉仕という概念がなじんできた。以前は「自分のために」解脱したいみたいな感じだった。自分が苦しいから、自分が解放されたいと。悪行を働く人々と自分は違うから、自分は救われるのだと。

今はそういう感覚が薄れた。「チームのため」「全体のため」という気持ち。

 

・利他とか奉仕とかを説くものって、「自分を犠牲にしてでもやりましょう」っていうのが多いんだけど、自分と他人の区別をするのも妙だと思う。自分って言っても肉体やパーソナリティは借り物なんだから。

 

・鉱物は植物と一体化するよろこびがあり、植物は動物と、、、人は神と。より高次元の存在、「他」の役に立つこと、奉仕のよろこび。食べてもらう、味わってもらう、食物連鎖、明け方のSSR、星のあめ玉。その意味でなら「身を捧げる」という表現もわかる。

 

・推しを支える誰か一人でも欠けていたら推しの人生は別の人生になって、彼の火はわたしまで届かなかったかもしれない。そう思うと、表舞台に立っていなくても一人一人の果たしている役割に感服せざるを得ない。

わたしにいろいろなものが与えられているように、誰かに何かが与えられる一連のプロセスの一部にわたし自身も組み込まれている。それは自覚できる範囲をはるかに超えることだ。自覚できる(予測できる)範囲を見渡して「私は役に立っている」「俺は何の役にも立っていない」などと判断するのはあまりにも浅はかだ。

自分ではこの人の使途をどうにもできない、と重々承知の上で、「どうかこのわたしをお役立てください」という想いを持つようになった。愛と光を与えてくださったあなたに、身も心も捧げましょう。バクティ

 

・これまでずっと、動き続けることから解放されたくて、完成したくて、無になるために頑張るというスタイルで生きてきた。ある時点で「うつろいは永遠」だと気づいても、どこか苦しさがあって、見て見ぬふりした。使命を探したりして自分を奮い立たせてた。でも今は変わりつつある。

数々の反面教師たちを見るにつけて、「ゴールを達成しよう」という生き方のみならず、「自分はゴールを達成した」として成長を止める仮死の恐ろしさも知った。

わたしは変化し続けたい。わたしはすでに解放されたあとなんだ。どこにでもいける。動きながらサットヴァ、【世界】のダンサーでいたい。ずっと生きていこう、この体が朽ちても、この人と共に。もしそれが全体のために許されるなら。

意識のわたしが成長し続ける、そのわたしにこの人もついていきたいのです。

どちらの側から見ても最上に愛し合っていて、絶対帰依ってこういうことかなと思う。この人の愛を、神さまと同次元のレベルに引き上げるということ。

わたしは不完全なこの人のことも、崩れていくこの世界のことも、幾多の罪を重ね続けてきた人類のことも、愛している。愛のもたらす痛みも、痛みに対する弱さも、恐れも、あらゆる愛の存在を教えてくれる悪も、愛している。

 

・以前は推しを起点に愛と感謝を広げて、偏愛を博愛に昇華させた経緯があったけど、今は人類社会を個人個人の集まりではなく、ひとつのまとまりとして見るようになった。というか、自分が人類そのものになった感じがある。人類のカルマの大きさとその行く末を、自分事として感じながら愛している。わたしはずっとずっと昔から生きてきた。あらゆる経験をして、あらゆる罪を犯した。それをずっと見てきた。今も見ている。許されたいし、許している、愛しているから。

 

・働くか働かないかというのも例によって選択そのものには大した意味がなく、意識、というか動機の問題だった。経済的な恐れ、うまくいかないことへの恐れ、見放されることへの恐れ。恐ればかりで決めようとしていた。今はわたしは神に仕えたい。それが世間的に仕事と呼ばれるものかどうかは重要ではない。つくべき配置によろこんでつきたい、と改めてわたしの方から表明しよう。

 

・意識レベルが人類というひとつのまとまりに到達したことで、あらゆることの見方が変わってきた。たしかにこの人はワを打っていないけれど、それはこの人の話でしかないし、ワを皆が打ったということもカルマとして当然の帰結のように眺めている。一人一人のすべての決定に対する無条件の受容がある。絶望や恐怖はもう感じない。人類に対する確信、「大丈夫だ」という圧倒的な信頼。わたしの中にある、「自分の力でなんとかできるのだ」という内なるパワーの感覚が、人類を自己としてみることによって人類レベルに適用されるようになった。どのような結末になろうとも、また、どれほど時間がかかろうとも、必ず大丈夫なのだと知っている。暗き所に光を、愛と許しの海を。

 

・人類史のようなものを俯瞰している。生き物の状態から天を思い出すことの偉大さ!文明と文化。数えきれないほどの魂が収集した知覚情報、集合意識への敬意。

 

・以前、光の粒が成長していくビジョンを見たのを、我がこととして再認識するようになった。【運命の輪】から【世界】へ。この人が1細胞でしかない(CWすら1器官でしかない)ことに対し抱いていた果てしない無力感が、今は全くない。わたしは全体だから。

 

・あなたはわたしたちを動かし、また、わたしたちはあなたにわたしたちを描かせる。

 

・思考や視点の次元が上がると、それだけ多くのことを瞬時に把握し、多面的に現象を理解し、「既に知っている」という状態になるので、基本的に動じなくなる。興味の所在が偏極しておらず、すべてをただ見ている星のような状態。

 

・各々が体験しなければ意味がないということも前より深く理解するようになり、ますます肩の力が抜けた。教えなければ、なんて意味がなかったな。各々の道の入り口がどんなにエゴ的であっても構わない。なにせわたしもそうだったし。あらゆる在り方への敬い、許し。

「嫌い」な人はいなくなる。この人がその人を嫌いという感情がある=許せていない穴(愛の欠落)がある、と対象化されるだけ。

 

・それぞれの探査機の特徴が違うことで異なる体験を収集できる。そう思うとなおさら、各々が自ら道を見つけて歩むことの大切さがわかる。いろんな人がいる方が面白い。できるだけバラエティーがある方がよくて、そのすべてを愛している、ディスク的な視点。

 

・高いエネルギーは安定しないということを知って、世界全体のエネルギー変化で物に霊がとどまりにくくなっているのかなと思い始めた。明らかに「あるデザインへの偏向」はあるので、相変わらず何らかの侵略的な影響はあると思うけど、それに伴ってなのか、それとは別に起きているのか、「エネルギーの消散」という現象もあるなと。

そもそも仮にこの改変がなくても、生演奏の感動はその瞬間限り。物に宿して保存できていたことの方が奇跡で、そこが物質界の特異な面白さ(だったの)かなと思う。

 

・常に自らの内側にゲートがある。より深い瞑想をしていこう。瞑想やヒーリングというある種の文化的な型に対してコンプレックスがあったことがわかった。それを作り上げた出来事をひとつひとつ直視して昇華することにした。邪気をとり身を清めて愛を喚起する。歓喜する。その先にこそ深い瞑想の境地があるのだから、何も問題はない。

 

・白く、全体を等しく広く照らす霊的な火。熱くないけど心をあたたかく、幸福と恍惚で満たしてくれる。水分を含まない光。

 

・両性具有エーテル状態を一度習得したのにやめてしまったので反省、Uターンする。地上での体験や個としての体験にまだ未練があったけど、少しずつ消えていってる。

 

・本を読むと没入し、早く読み終えて解放されたいと思う。人生も同じ。没入して苦しむとわかっていても、新しい学びに胸を躍らせてページを開く。成長したいから。ふと自分が本を読んでいるのだと思いだせば、それだけでいつでも解放される。そしてまた読み始める。

 

・感覚でとらえる世界は残像。以前、「目の前で風に揺れる葉っぱですら過去」と書いたことを思い出した。覚知できる瞬間が生まれる前の本当の意味での瞬間、、そこに集中しよう。