アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年8月の日記 ~Bucket List作りを終えて、次のチャプターに向けた準備

・どんな生き方でも、どんな人生を選んでも、神さま(作者)はそれを有効活用してストーリーを進めてくれる。「御心のままに」はストーリー展開を妨げませんという意思表示であり、作者への信頼。

 

・改革者的になることを「期待」されて違和感があったのは、改革という概念に、何かを否定することから始まるエネルギーイメージがあるからだった。問題点の掘り起こしのようなことはもうやりたくない。ただ、そのままを肯定する、よろこびのエネルギーを振りまきたい。

 

・「人類への貢献」という言葉に対する違和感は、「大我(神)の目的、向かっている先を知らない小我が、その小さな視野・価値観の枠組みにそれを押し込めているように見える」からだ。何が貢献になり何がならないのかを、なぜ小我が判断できようか?

 

・神に仕えたい心は愛に包まれることで自然に発生する。より大きな愛に自然に向かっていくだけのことで、力むようなことではない。

勝手に責任を感じたりせずに、無関係によろこびを増やす人でありたい。

 

・逆エンパスとしての「役割」をある意味実感して受け入れた。干渉せず完全に敬っているつもりでも、それでも相手がざわざわしてしまうのは仕方ない、わたしはもう嫌われることを恐れないし、傷つけることも恐れない。故意に傷つけるわけではなく、わたし自身の純粋なエネルギーによって傷つくのなら、それはきっと成長にとって必要なヒビだ。芽吹きのための裂け目。相手に嫌われないように、傷つけないようにすることこそ、言い換えれば期待に応えることであり、枠内におさまることであり、エネルギーの抑圧だった。

 

・相手の言葉を自分の中で翻訳する癖を逆エンパスの状態でやると、相手のオーラを自分の色で塗りつぶしてしまう。一切解釈せずそのままにすることで、透明のオーラになれる。美しく透き通る白のオーラになりたい。

 

・多くの人がエネルギーを抑圧されてる。他人のエネルギーフィールドに入っている間は自分の思考や感情に自覚がなく、外に出たときにいきなり違和感を覚えるんだ。逆エンパスが嫌われる仕組みはここにもあるんじゃないかな。閉じ込められるような感覚を与えるというか・・・。

 

・自分を貫くことで相手と衝突してしまっても、それで終わりではなくその先もあるかもしれないと友人が言っていて、「つづくものはつづく」というのもそうだし、まさに目先のアストラルに一喜一憂するのではなく遠くを見ることが大事だなと思った。相手のあらゆる在り方を敬うということは、当然自分との関係性も含む。

 

・崇拝は相手に責任を押し付けること。対象の周りをぐるぐると回る=太陽を委ねてしまう。責任を負う、創造の恐怖から逃げている。でも崇拝してくる相手の在り方すら敬い拒絶しない。自分が期待に応えなければ済む話だから。

 

・欲しいなら欲しいと表明しよう。「表明する=責任を負う」ことなく相手をコントロールする(期待して応えてくれるよう仕向ける)パターンが多いと自覚した。素直に表明することこそが愛情表現で、幸せな感情を生むと知った。

 

・先生と向こうで視点をアストラルの中にとどめたままでいる練習をした。夢の中で、意志をもって相手を愛そうという自覚的な感覚も育ってきた。両者は相関しているのかもしれない。

 

・過去の記憶、現在に至るつながりの情報を取り出す一瞬前にそれが生成されているような感じがする。

 

・どんなささいなことも、着想の瞬間は火の粉が降るようだ。

 

・否定から入る文型の願望をやめるだけじゃなくて、自分の思考プロセスを他人に説明するときも何かを否定することから始めるのをやめたい。せめて否定部分は最小限にとどめて、「それならどうしたいのか」という方を厚めに語ろう。

 

・完全なプロセスの一部として今を認識する幸せ。どこかに運ばれているという感覚。大まかなスチル写真を提出したあとは、細かい部分は神さまに委ねて、思い煩うことなく待つ。コンセプトを決めたらあとは安心して任せるという感じ。

トラウマが長かったけど、「次はどんな作品に仕上がるのだろう」と楽しみに思えるようにようやくなってきた。何がどう叶うのかを見ることで、逆に自分が本当は何を望み、どのように成長すべきなのかがわかる。

 

・電車や徒歩の移動が好きだと改めて思った。建物の色合い、蝶や洗濯物、空に浮かぶ雲。それらを見るだけで今ここに生きている至福を感じる。

 

・改めて「働かない」と決意した(笑)

人目を気にしていたのと、「自分が苦労して稼いだお金」ではないと自由に使ってはいけないのではという固定観念。自由を得るために自由を犠牲にするところだった。人々はお金の使い方に責任を負わない代わりに仕事で責任を負っているだけじゃないか。

 

・のめりこんでしまうさそり座の性格をなんとかしたいと先生に相談すると、しばらく自分で考えるように誘導されて、そして・・・「その現象が起きるのは必ず、電子機器に触れているときだ」と教えてもらって、雷に打たれたような衝撃!たしかにその通りだった。アーリマン?

スマホもPCも心を遮断して脳を肥大化する装置。心と体は共同していて、それぞれがそれぞれのサインを送ってくれる。身体感覚をゲートにすることで没入・過集中を防ぎ、心を共同させることができる。機械はそのゲートを閉じてしまう。

「デリートヒストリー」の海外ドラマ中毒のおばさんと同じ状態。他のことをして休もうとしてもそこに意識が囚われたままで苦しく、むしろ解放されたいばかりにさらに続けて集中してしまう。自分の意思じゃなく、まるでコントロールされたかのようになると、後悔もするし怒りも湧いてくる。

 

・何が問題で、どうなりたいのかを言語化するプロセスの大事さ。さそり座の集中力の強さ自体が問題なわけではなかったし、パンフォーカスしていたいわけでもなかった。よろこびとは、体・心・脳の三者が共同し調和して生まれているんだなと理解した。

 

・過去の恋愛を振り返って、ほとんどが実は、単に「承認と慰め」を与えたいだけだったとわかった。「偉いね」とねぎらって、彼らの好物をふるまってあげたい。飴ちゃんあげるおばさん。彼らの中のインナーチャイルドの飢えをやわらげてあげようとした。支配欲や期待に応えようとする癖がそれと相まって、例の「パンを与えて依存させる人」になっていた。構造がわかると、ただ博愛の人であればいいことがわかる。

 

・人生でやりたいこと100を描いた勢いで、既に達成できた分を50くらい書いてみたら、既に最高の人生だなと思った。何を望んでいるのかもより明確になってきた。この一か月でかなりクリアに変わった気がする。今まで気づいていなかった自分をどんどん再発見している。新しい自分にもっと出会いたい。過去に気に入っていたパターンの焼き直しでは無難なだけだ。

恋人探しや職探しは洋服探しと似ている気がした。自分に似合うもので、かつ社会的に許容されるものの中から選ぶという、”条件”で絞って探していくうちに見失って妥協してしまう。そして無理に納得して、愛のない選択をしてしまう。求めているときは”ない”にフォーカスされるというのも同じ。「だって探さないと見つからない」と思っているうちは見つからない。四葉のクローバー。

 

・時の流れはあらゆる全てを変えていくから、夢を描き続けるんだ。「今も、どの瞬間も、新しい扉を開き続けている」。

 

・いろいろな人の人生を知ると、改めて「ライフワーク」と呼べるものがいつどこに転がっているかなんてわからないなと思う。すべて完璧なタイミングで訪れるのだろうという気がする。

 

・この人の身体を愛する他人の身体のように扱うように変わったことで、体をいたわる発想が旅行の計画時なんかでも自然と出るようになった。

 

・選択のたびに失敗を恐れるわたしに、先生が「君が憧れている人たちはどうか」と。本来失敗という概念なんてないことを改めて気づかされた。

 

・背景を知ってもなお美しさを愛する心を愛している。ケムトレイルの雲、シャボン玉、アイシングのクッキー。クソだとわかっても、美しいものは美しいから。

 

・反発、反抗は対象を意識していて引力に影響されてしまっている。太陽のように堂々と、淡々と光り続けていたい。

 

・自己紹介を考えてみると、これまでと全く変わっていることに気づく。趣味っぽい趣味を言うことはもうないし、「普段何してるの?」という質問にも前ほど怯えなくなった。そのとき興味のあることをしているだけだし、自分のことを決めつけなくなった。

 

・他人に求めることのポイントは1つで、信頼してくれることなんだとわかった。束縛するかしないかとかではない。選択が問題なのではなく、意識の在り方がすべてだというのと同じ。期待の監獄に入れずに、良心や人間性そのものを信頼し合う関係、星のあめだまの愛、枠から外れていくことを許し合うこと。それは、自身に対しても。

 

・つい最近まで「酒・たばこ・ギャンブル不問」のつもりだったけど、普通と違う理由でそれらがダメなことに気づいた。それらは魂を曇らせるんだ。ドッペルゲンガーの天下になってしまう。カフェインも機械もね。

 

・絡み合う光の枝、大きな光の羽に包まれて神聖なあたたかさを感じる。あらゆるものに宿る愛する存在を感じながら、次の瞬間を紡ぎ続ける。

 

・導きのサインに素直でいることの大切さも思い知った。どれほど助けられているか、また、どれほど助けようとしてくれているかを知る。