アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年5月の日記 ~干渉と愛は紙一重なのか?愛に方向性はあるか?他

 

・愛すること、与えることは「傷を癒す」「不安を取り除いてあげる」「助けてあげる」「介入する」ことだと思い込んでいたみたいだ・・・そのままでは好ましくないと思うものを見つけて、「私の手によって変更を加えさせてほしい」=影響を刻み付けたいというスタイル。その人にとっての「傷」を決めつけて、それを癒すことが幸せだというエゴの押し付け。スタートの地点からおかしかった。前にも、欠損を見出すのは相手を下に見ているのと同じ、と書いた通り。依存的な人が寄ってくるのは、そういう「干渉」を受け取りたい不安な人たちと相性が良いからだ。自立した人は「干渉」を嫌う。当然だ。

 

・傷とか欠損とかいう概念なく、唯一無二の柄や形のように、そのままの状態を愛でる。その対象のすばらしさを神様と共有したいと思うこと、それが表現であり、創作であり、創造だね。ただ想いがあふれて、触れたいから触れるというような。

それでも、主客の分離によって観測するだけでも、「干渉」自体はしてしまう。意識が世界を観測することで、世界は観測されなかった状態には戻らない。改めて、自分が生きていることを許そう。そして流転を生み出すことを許そう。

 

・介入的な方の創造(失われる恐怖による保存の工夫や、不足感による”改善”の工夫)は、マイナスがないのが幸せというマインドにつながっている。「ここはイマイチだからもっとこうしよう」というような創作は「思考的」で、否定から入っている。そうじゃなく、ただありのままを感じてまるごと表現する、それがいわゆる「降りてきた」というやつなんだ。ありのままを感じるのは、愛がベースになっている。

ずっと介入/否定ベースで生きてきたから、支配的にもなるし、結果をコントロールできないと拒絶されたという感覚になってた。人の傷を何とかしようとして悪化したとき、どうにもできなかった無力感、悪化させてしまった罪悪感と、それらがキャパオーバーになることで傷があること自体への怒りまで向ける。もともとそこにあった恐怖が対処しきれずにいっきに襲ってくるんだ。失敗してしまった!!という感覚と共に。結果をまず受け入れる、そのままにする勇気が欲しい。自分を許して、相手を信じて待つ力。

 

・恐怖のエネルギー(依存的な人や支配的な人)に惹かれてきたのは、そういう愛し方しか知らなかったからだ。夢の中でわたしの介入をぶん投げてくれた人がいたおかげで、少しずつ変わることができた。

 

・恐怖や傷に焦点を当て続けることによって周辺にある輪郭を浮かび上がらせる、という奇妙な手法の芸術がある。コントラストを作ることで間接的に光を認知する。私が長いこと好んできたやり方。不幸な方が一瞬の幸せを感じられる、みたいなやつ。『ぼくのエリ』とか『ダンサーインザダーク』とか韓国映画『男と女』とか。思考的なアートとも相性が良くて、脳が肥大してこじらせたオタクが喜ぶ。

反対に、恐怖や傷から発生する諸々の感情自体を「よろこび、賛美し、祝福する」というもの、これこそが「黒に対する特異的転倒」というやつで、語り部スタイル。取り除こうとせずに、そのままを認識して笑い飛ばす。傷心の歌も、その傷心自体を祝福するように歌う。アンニュイな光線も、冷たい冬の空気も、祝福として受け取りたい。

 

・恐怖に「対処」しようとすることは、それが恐怖だと認識(フォーカス)してしまうので、結果的に恐怖の存在を強めてしまう。そのままにする勇気を持つのは、「そこにないように見る」というのと似ていると思った。

恐怖にフォーカスしたら恐怖が増えるように、愛にフォーカスするなら、どんなに小さな種であっても愛は増大し続けていくんだ。

 

・感じて、満たされて、溢れたものが表現される。表現自体が与えることになる。すべて自然の一部であり、食物連鎖。受容と創造が同時に起きる、恒星意識に近いかもしれない。よろこび、賛美し、祝福する。

「感じて、表現する」というときの「感じる」対象は思考感覚の思考もだ。自分が考えたというよりも、流れている思考を感じ取って、降ろしてきて表現している。

 

・自分に対しても「欠けているところを変えよう」という介入的な接し方ばかりしていた。そうすると不足感にフォーカスされて、自己否定のスパイラル。向上心があって良いことだと思っていたけど違ったわ。何の理由もなくただひたすら楽しくてうれしくて笑い出してしまうような瞬間をもっと生み出そう。

自他の境界が薄いことも干渉衝動の原因なのか。他人を自分の一部のように感じるから、自分にするように他人に接する。ということはもっと自分をそのままで認められたら、他人のこともそうできるようになるはず。

天使とかガイドとかアセンデッドマスターとかってすごいな。後続のわたしたちが苦しむのを自分の苦しみのように感じるはずなのに、それを取り除こうとせずに(取り除けるのに)見守ってくれる、乗り越えられると信じてくれている。どれほど難しいことなのか、よくわかるようになってきた。

 

・他人に幸せを与えることはできない。幸せは本人の意識レベルだけが決める。(よろこぼうとしない人をよろこばせることはできないという話。)与えることができるのは無条件な信頼だけだ。「わたしはわたしが大丈夫だと知っている。だからあなたも大丈夫だ」。

 

・この次元では、芽が出てつぼみができて花が咲いて枯れる。けどそれらはすべて種の中に表現されている。種はすでに完成された至福。何らかの状態を「直すべきもの」として見ずに、そのままの在り方を認めることは、花の具合に一喜一憂するのではなく種そのものを祝福することだ。

 

偶像崇拝が良くない理由がわかった。「誰か」「何か」を区別することは愛の条件であり、愛の理由を生んでしまう。誰かわからない、なぜなのかわからない、ただそこに愛の衝動があるということが大事で、だからこそその愛は水にもなるし空気にもなる、意識のあるところに常に共に在ってくれる。

 

・自分がどこにでもいる、すべての時空に普遍的に偏在する自分を知ると、「虫もおじいちゃんの生まれ変わりかもしれない」というセリフが違った理解になる。おじいちゃんの意識は今この瞬間、この虫を通して世界を見ているかもしれない・・・と。意識はすべてであり、すべてはわたしである。

 

・依存的な人には、その人を特別扱いする人よりも、「当たり前の博愛」をあげられる存在が一番良い。揺さぶられず、振り回されず、変わらずにいつもそこで光っている太陽のように。すべてに対して「平等」に受け入れる。愛は空気。

 

・わたしたちはつながっていて、わたし=あなたの状態のとき、方向性はそもそも存在しないから、与えたり返したりという概念自体がない。愛がどこからともなく生じてそれを感じるだけ。わたしが嬉しいならあなたも嬉しい。表現しないと伝わらないという恐怖は分離の感覚からきていることがはっきりとわかる。

 

・トータルセルフとはまた別の感覚として、人類(地球文明)がひとつの大きな生命体のような感覚と、それが(それも)わたしであるというような不思議な感覚があった。ずっと生きてきたような・・・ずっと創造し続けてきたような。その中にある今を改めて祝福したくなった。

 

・夢の中では幸せな気がしていても起きてから違和感がある夢と、出来事は意味不明なのに起きてからも充足感のある夢の違い。純粋な自我が何を望んでいるのか、少しずつ分かってきた。出来事ではなく、すべて心の在り方。

 

・地図を見てそれをもとにルートを決めるというのは3次元的な古い発想な気がしてきた。本来の宇宙では動きながら地図も変わる。外側に変えられないものがある前提だと、未来も「外側」の抗えないものとして、それに「合わせて」今を決めようとしてしまう。そうではなかった、今を決めたら今に合わせて未来(地図)も変わるんだ。世界は完璧だから信じて委ねよう。

 

・本当はここには何もない(=すべてがある)のに意識が特定の一部分にフォーカスして組み立てて作っている、ということをヘミシンクでさらに実感した。なおさら意図が全てを決めるのだということがわかった。

 

ヘミシンクNVC体験はバベルの塔の自説(人間が霊性を失ったから言葉が通じなくなったんだというやつ)を裏付けた。「ハートの知性」を使えば言語は要らない。そして、海外一人旅をしてきた人たちに共通する雰囲気はそこに鍵があることもわかった!ハートの知性が鍛えられた人たちなんだ。

 

・解釈者の左脳はパターン化して記憶する。器がないと水を持っていられないのと同じ、器、パターン、左脳、土星・・・やっぱりつながる。脳の解釈はあまり役に立たない・・・霊界は「それがそうだから」としか言いようのない世界。

 

・自分がやりたくないことをわざわざして「あげた」ときにこそ感謝を堂々と受け取れるものだと思い込んでいた。感謝をお金に置き換えれば、仕事もそういうものだと思っていた。自分がただ好んで選択しただけのことについて感謝されるととても不思議な気分。「苦労していないのだからそれは感謝されるところではない」と潜在的に勝手に決めつけていた。ある意味自分のルールの押し付けでもある。わたしは自分の選択に誇りを持とう。わたしがよろこんで行うことはよろこびの連鎖をつくる。

 

・1つ1つが何につながるのかさっぱりわからなくても、点描画のように大きな作品になる。大きな作品であればあるほど1筆だけ見てもわからない。1筆の重要性をかみしめて、信じて集中しよう。1秒1秒が貴重で希少な明晰夢