アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年10月後半の日記 ~月欠損理論の守備範囲の広さに脱帽…

・答えを見つけようと思うときこそ心に栄養補給をすること!「心を開く」=「ハートの知性」の在り方に立ち返る。

 

・今ここは、無数にみている夢のかけらのひとつ。感情的な喜びや楽しみ、満足感とは違う次元の、不思議な充足感。

 

・「夢を感じる」ことは「愛を感じる」こと。「今ここの印象を拾う」ということ。ヘミシンクで集中しているときのように生活する、HereもThereも同じ。ハートチャクラを開く。感じている意識の存在を知る(神さまを感じる)。

人と話しているときにもこれができるように。それが要するに「知覚者コミュニケーション」でもある。

 

・意味もなく思考ジャンクにまみれているときには、その声にエコーをかけてしまうと少し静かにしやすいことが判明。ほかにも、先生に"Talk to me"と言われると、実はとてもどうでもいい内容をしゃべって(考えて)いたことに気づかされたり。。いろんな方法で「マインド(思考)を意識(気づき)に昇華する」試みをしている。エゴ(思考)の【死】からの、【節制】=【アルケミー】の年にふさわしく。

 

・わたしはこの人を通じて、この世界の風景の一部になることができる!そのよろこび、幸せ、自覚。だから、愛しいあなたのために、美しくありたい。この愛する世界に美を増やしたいから。

 

グラウンディングがよりできるようになったことで、肉体を持つこと、感覚をもつことの感動がさらに大きくなった。コーンフレークを噛む音、感触の面白さ。本棚の仕切り板の固さや冷たさ・・・!グラウンディングもだけど、センタリングによる効果でもあるかもしれない。自分と外界との境界線をシャープにするということ。

 

・自分に誠実になること、そして「上品な大人の女性になろう」という目標が、「女王になる」という表現に集約できそうだと思った。女王になって、王とペアになる(笑)

わたしはもう侍女にならないし、従者も必要ない。人々を圧倒し敬われ、また愛されて手を差し伸べられるような女王になる。これも、一見両立しない者を両立させる美しさの体現だ。オクターブ上の姉妹統合。(やはり【戦車】の一段上の【アルケミー】!)

 

・「女王」のイメージが「高貴なものを運ぶ」というアルケスのイメージにつながっていると気づく。浄化されクリアな状態のうつわでありたい。

誠実さとは、「この人のしたことなら間違いない」と信用されるような人物になること。実際に正しいかどうか以上に、信頼され(許され)る人物像。まほやくのカインのような。自分の選択に自信を持つ、責任を負う覚悟がある、すべて受け入れたうえで楽しもうという気概をもつ。そのためにはまず自分が自分を信用できる人であることが必要。

 

・親しみやすさ、やさしさ、愛情深さ、愛らしさ、華やかさ、明るさ、あたたかさといったキーワードを、女王の気品や力と両立させる。花束のように、さまざまな表情を魅せながら全体として統一感のある美しさ。

 

・他人に媚びるために毒を吐く癖がついてしまっていたみたい。ブラックジョークだから良いかと思っていたのに、メタトロンで出たのは「不平不満」と「悪意」・・・人に気に入られるために自分を傷つけて裏切って犠牲にして、悪い波動を選択し続けていたと知る。もう嫌だ、やめよう。It's all down to you「すべては自分次第」。

 

・愛をもって健全な境界線を引くというのがすべての鍵を握っている気がする。敵意も、険悪な雰囲気も、「仮にそうなってしまっても大丈夫」というプロテクションの安心感があれば、自分にとって有害な同調という選択をしないで済むのに。過干渉もこれだし・・・って、結局月蟹座と同じテーマじゃん。

 

・境界線を引いても引いても不十分(安心できない)という感覚こそ月だ!納得。自分を守ろう守ろうとしても境界線は機能していると思えないし、逆に、感じよう感じようとしても感じられない→「知覚者コミュニケーション」に努めたことによる落とし穴!

目の前の相手を大事にしようと思ってそこにフォーカスしていたら、かえってのめり込み感で苦しくなってしまっていた。月化したらむしろ蟹の干渉が発動した(月化すると相手=対象も月化するので、欠損があるように認識されてしまう)。まったく本末転倒だった。。「相手の次元に合ってしまって嫌だ」と言ってきた、その頃と同じ状態に戻ってしまっていた。。

月化(干渉)を自覚してやめようと思っても月状態である限り相手の欠損を考えることから離れられない。干渉をやめようとする(我慢する)のではなくて、月であることからただ抜ければよいだけ。

 

・目の前の人とそれ以外の景色(自分も含め)を等価として、同じように感じること。そして生じた陰陽に美を見出す明晰さ。結局夢と同じで、すぐに没入してしまうものなので、周りの世界や身体感覚、内的世界に少し目を向けるくらいでもちょうどいいのかもしれないと思う。風景に美を見出すのと同じ感覚で人間を心から愛でるスタンス。

これも以前書いた「花の具合に一喜一憂するのではなく種そのものを祝福する」というのとつながってきて、「すべての在り方を敬う」ことが結局「透明感」になる。干渉する=塗りつぶすということのないように。知覚者コミュニケーションは「知覚しよう」「知覚しなきゃ」ではなく「解釈しない」という心構えがちょうどよいかも。

 

・以前「自己受容すれば干渉もしなくなる」と書いたけど本当にその通りで、境界線など引かなくても、むしろ逆エンパスを逆手にとれば相手の透明度すら上がる。「わたしがOKなのだから、あなたもOKだと知っています」という感じ。

 

・今思うと8月に書いた「ズレた努力をしていた」という気づきとパラレル。あれも一種の月蟹座のトラップだったってことか。。感じよう感じようとするんじゃなくて、「感じていることを知る」こと。

 

・プロテクションが必要だ(境界線への不安視)とか、浄化力を強めなきゃとかも、そもそもが「浄化ないし排斥すべきものがある」と認知してそれをつかんで抱えてしまっていることに問題があるのだと気づいた。別に何が飛んで来ようとそれはいずれ過ぎ去るものだし、次の瞬間別の何か美しいもの、良きものに自分が同調するようにすればよい。それが結果として浄化。「何に共鳴するのか」は自分の意志で毎瞬間えらべる。対象のせいにするのは筋違いだ。

感情的反応(反射)をして引きずられてしまうのは月だから。何か良くないものに「対処」しようとする(かかずらわる)姿勢こそ「干渉」であって、問題の根っこは全く同じ。スルーして選択し直すことのできる意識状態でいること。

外側にある別のなにかを探して合わせるというより、内側の変わらない根源(あの圧倒的明るさで輝く「内なる太陽」)とつながるってこと。光の枝を掴む。先生たちはどんなときも、どんなところでも影響を受けずに輝いている。わたしもそうなる。

 

・美しいものについてあなたに語る、チャネリング状態を続けていれば良いのかもしれない?貴人のために物語を紡ぐ、伽。そのために4チャクラを開く。

 

・東京という土地は実はとても愛されているのだと知った。愛されている土地は好きだ。それに、少し歩くだけでさまざまに表情を変えていくのはとても面白く、魅力的だと思う。・・・とここまで書いてみて、「愛され方」を理解しやすいかどうかなだけかもと思った。地方はその地方のやり方で愛されていて、ただその表現にわたしがなじめないだけだね。

 

・以前は弦楽器になったかのような調整(コードの調整?)を向こうで受けたことがあったけど、今回は笛だった。わたしはまるで吹かれて、勝手に音が鳴っているみたいに「ン~」って声を出して、そんな風に調整してもらった。かなりオーラがクリアになってチャクラもきれいに整った気がする。レゾナントチューニングってこういうことか!

 

・羞恥の感情は幼さ、未熟さ、無知に対する恐れと自己否定と言えるかも。成長への焦りがあるからこそ他者がすぐにシャドウになってしまう。インパチェンスやバインのエッセンスが必要になるタイプはきっと羞恥も強い。

 

・羞恥の感情は「ここまでやってきた」という自負心や承認欲求と表裏のもの。「まだ不十分だ」という、幼さの否定、よく言えば向上心。火星と月のコンジャンクションも関係あるのかも。月が火星の真似をするのではなく、火星が月を包むようにする。月の幼さ、あどけなさ、至らなさを火星が受け入れること。吸収して開き直るくらいでいい。そうすると羞恥が愛に包まれる感じになる。

(羞恥という感情の発生自体を問題視して「対処」しようとしていたという皮肉w)

 

・羞恥の感情と承認欲求が表裏というところから、どちらにしても「過去の物語」を見ているということと気づいた。今ここにある自分をそのまま受容すれば、どちらの感情(欲求)も消えていくんだ。ありのまま堂々としていれば良い。とりあえず「今のところこんな感じです。どうぞご覧ください。」みたいな塩梅でいこうかな。

 

・妙な夢をみたおかげで男性性/女性性の概念理解がさらに深まった。

男性性側=Man/人類に求められるのは、自分の抱いた勝手な期待や予測よりも、常に目の前のものを全力で愛する切り替え力。すぐに期待を修正するというか。つまり脳内のイメージは過去ないし未来でしかないので、現在(いまここ)を優先して愛する(コミットする=専念する)ということ。

そして女性性側=Nature/自然、地球の方は、傷つけられたとしても、「それでも愛を信じ続ける」という強さ。許しであり、忍耐でもあり、Manの成長を待つ寛容さ。地球は許しと寛容さのプロフェッショナル。

 

・わたしに必要なフラワーエッセンスがインパチェンスやバインというのはメタトロンの結果でわかっていたことだけど、その通りのフラワーエッセンスを摂ることは先生からは勧められていなくて。「これにしなよ」と言って示されてきたのが「ハートを地球の波動に合わせる」という説明の石やエッセンスだったことが、今になってつながった!より本質的なアプローチだったんだ。(やっぱすごい。)

 

・男性性の対となるはずの女性性が長らく不在で、代役として月の子(例のベージュのワンピースの女の子、カタツムリ)が対をなそうとし、それが結局幼児性のアンバランスを生んでいたのだということもわかった。月の子はピリピリした長谷部に「大丈夫?」と言いながらソフトクリームを差し出す(笑)一方、本物の女性性を体現する、あの人間離れした女神は「大丈夫よ。」とほほ笑む。

 

・本当の意味で客観的な事実なんて存在しない。すべての物語は「わたし」の中に内包されているもので、だからわたしは物語を全く変えることができる。同じモチーフ、同じ題材を使って異なる印象を与える作品に仕上げることができる。過去も、現在も、未来も。

 

・「愛が湧き出ること」の大切さを書いてきて、服を買うとかの例を出していたけど、よく考えたら今直面している「場所選び」も同じだった。ありとあらゆる選択の場面で、愛が湧き出るかどうかが大きな指標になるんだ。「どんなに無難に思える選択肢も無難でしかない」ということに改めて突き当たった。

「すべての行動原則・選択動機を愛とよろこびにすること」というのが、また一回り大きくなった感じ。たぶん今までそう書いていたときは、誰かへの干渉だったり何かのコントロール的な(影響してしまうという)場面を想定していたんだよね。でもそういうレベルを超えて、本当の意味で一挙手一投足というか。実際には一挙手一投足まで意識はできなくても、せめてなにか、何をするかを選ぶときにはいつも、愛を感じられているかどうかを大事にしよう。愛、よろこび、好奇心。

 

・恒星が分割されて全惑星意識。それはすべてのチャクラを輝かす、虹色のプリズムという表現とも重なる。もとは1つの光、それがここに降り立てばそのように表現される。その表現を自ら楽しむということ。ノンデュアリティというのも同じ。ここに降り立ったならば、陰陽の美、二元性を楽しむ。

全惑星、全星座、全タロット、全チャクラ・・・。

 

・地図ばかりを見て景色を楽しむことを忘れない。今ここでしか経験できないことに集中する。

 

・「偽物の、切り離されたフィルム」=「落丁」=月=(一部の)夢、という話から。思考にも「本流」と「落丁」があるのだとわかった。思考の川の、本流と支流。支流の渦に入り込むことが無意味な自動思考の正体であり、「リピートされる不完全な世界」。

 

2023年10月前半の日記 ~すべてを楽しもうという気概、歪んだ月の自己認識

 

・「こうしたいという願いを叶えたいのに、こうしなければならないと考えてしまっている」というパターン。そこを目指さないと/そうあるべきだ みたいに、力んでしまう。別にそんな力を入れなくても、自分がただ好きこのんでそっちに向かおうと思っているだけのこと。よく”Easy”と言われるのはこれもある。。いつでもその気楽さを忘れずにいたい。初心=意図にかえれば、方法=ルートはいくらでもある。

 

・「意図が同じなら同じものが実現される」というのは、機会を見送ってもより良い形で改めてやってくるということでもあるなと思った。「望んだかたちになるまであきらめない」と書いてきたのも同じこと。「チャンスを逃す」というのがとても怖くて、愚者の逆位置になりやすいから。。あくまでもクリエイターも主人公もわたしで、「こうしたい」と心から思うこととつながり、結果を引き受ける(すべて楽しむ)という気概がすべてだ。

 

・ほうじ茶ラテのどこか懐かしくて優しい味を、膝の上で飲んでいるような幸せ。励ましに来てくれるアオスジアゲハ。いつもデートしていることを思い出しては笑顔がこぼれる。

 

・単純な好奇心として、人間関係のすれ違い(典型的なトラブルの原因になる、承諾範囲の誤認とか)が一体どうして発生するのかが知りたくて、事例を観察するために実務を学ぶのは面白いかもと思えてきた。それこそ以前は、自分がそれを解決しなくてはならないんだという思い込み、気負いがあったから勝手に苦しくなっていたけど、今はその天秤座に見せかけた蟹座の月を手放したから。今なら本当に、目指してきた語り部になれるかもしれない。とても遠くから見ている、観察するだけの人。観察した結果を述べるだけで良かったりするのかもしれない。

前は人の話をきくとその人の次元に合ってしまうから嫌だと言ってきたけど、月の共振を使わなくていいのだから、何のストレスもない。やっぱり悩みはすべて月が生むのか。。

 

・1→2で世界を生んで、3で観客席、4でコントロールのために改めてステージへ入っていく、という話だけど、人類を表す5は配役、キャスティングでもあるのかなとふと思った。鋳型を示す【教皇】。そして生まれる「選択」と「関係性」というドラマが、愛の数と言われる6で【恋人】。そして成熟する個我の中で再度(フラクタルに)生じる陰陽が7。いったん7で小宇宙が完結するということ・・・?

 

・やっぱり月は「まだ不十分」という感覚をもたらす気がする。「十分できている」と自分を許して解放しよう。そしてそれは、ネイタル月の近くの火星にも波及しているんじゃないかと。火星のエネルギーを月が吸ってしまう、しかもそうやって吸ったことで月が「自分は火星らしさがある」と思い込む。月の誤った自己認識。いつも「あなたは女性的だよ?」と言われては戸惑っていたけど、つまり自分ではとても男性的(火星)と思っていたし、どこかで「そうでなければいけない(だってそれこそが自分らしさだから)」と感じていたということ。実はそここそが欠損していて(というか月が吸ってしまって、月のモノマネ状態ではあくまでも偽物という意味)、わたしは本当は全然喧嘩も強くないし、闘争的でもないんだ。。自分では得意なつもりでも、一番未発達な部分。。幼い頃の自己イメージにとらわれることの怖さ。。

 

・ちなみに検察に憧れていたのも「体育会系の組織」とはまさに蟹座(&やぎ座)で、特に熱さのある一体感というのはもろ蟹座の領域なのだとわかり、ぞわぞわ・・・!!一貫しすぎ。

 

・「自分にとって必要なものだけを残し、あとは手放す」と2月に書いたとき、どこでも生きていける足場になるような、テントセットのようなもの、とひとつ書いていた。「月の安心」も。月と土星、つまりは蟹座と山羊座の要素なんだと今更ながら気づいた。情緒的な安心感をセルフでどこでも得られるという月=蟹座の力。そしてこの世界(ゲームシナリオ内)でなんとかやっていける、肉体を存続させられる足場を作れる土星山羊座の力。

どこでも生きていける山羊座というのは、視点を変えれば「サレンダー」だ。エゴではなく無私の奉仕に身を任せれば、結果として神につかわれ、ゲームシナリオ内での立場が与えられる。

 

・蟹座山羊座が「テントセット」ならば、おうし座さそり座は「一瞬は永遠」。この瞬間の豊かさを享受するおうし座。どこまでも深い愛による確信、エクスタシスのさそり座。見えるものと見えないもの。

 

おとめ座うお座は「夢を感じる」。目の前の”現実”に愛を注ぐ乙女座はピントの機能、つまり明晰さ。着地。魚座はすべてが溶け合うオールOKの世界、夢見の感覚。

 

・前半の牡牛・蟹・乙女はいわゆる「グラウンディング」を、後半の蠍・山羊・魚は「バクティ」を表していることにも気づく。個我視点か宇宙視点かということ。

 

・それから面白いと思ったのが、3つの宮の分類で、活動宮はゲームを「する」よろこび(参入=活動のよろこび)、固定宮は「待っていると湧き出る」愛やよろこび、柔軟宮はゲーム内で「動いているときに感じる」愛やよろこびと言えるのかなということ。

 

・水の反映が土なら、火の反映が風。「ここにいたくている」という牡羊座の意図、そして生じる天秤座の陰陽分け(1と7)。成長のよろこびのいて座、未知への好奇心のふたご座。信頼と行動動機を示す獅子座、創造的な解決力・応用力をもたらす水瓶座

 

・どこでも安心の月=蟹座、どこでもサバイバル/サレンダーの土星山羊座ということで、星座と惑星の対応を改めて考えた。

双子と乙女はどちらも「観察者=カメラ」=水星だ。牡牛と天秤は色ガラスの部分、「演者」。特定の個性を持った演者がそのフィルターを通して感じ、考える(アドリブする)ことで「彩り」を加える重要性。しし座=太陽が確固たる自己信頼をもたらし、牡羊=火星がベクトル;どこかに向かっていくという、言ってみれば「抱きたい」という想い、情熱をもたらす。射手=木星は成長意欲、「どこまでも拡大するあなたに、わたしもついていきたい」という想い。水瓶=天王星はまさにタロットでいう【塔】のようなクリエイティブな発想。魚=海王星はその先の【星】の世界のよう。蠍=冥王星は「見えない世界への誘い」=【悪魔】、あるいは「見えない世界からの来訪」=【月】か。「見えない世界での変容」=【死】でも良いかも。

(そう考えると【死】の次の【節制】で新たな自分として世界に改めて戻っていく=射手座につながり、次の山羊が枠線上の【悪魔】で水瓶【塔】魚【星】ときれいに順番がつながるね)

 

・なんにせよ、「わたしに本当に必要なもの」とその都度リストアップして抽象的に書き連ねてきたことが、全惑星意識の獲得と同じことだったんだとわかって感動。

 

・以前大アルカナの考察をしていたころ、【審判】のカードがよくわかっていなかったけど、これこそが「火を土に」そのものだと気づいた。絵柄そのままだ。

 

・あと以前はこのブログにも山羊座土星と【皇帝】を結びつけて書き続けていたけど、「コントロール」は必ずしも山羊座土星に限らないんだとわかってきた。。

牡羊座=火星は「抱きたい」想い:抱き寄せたい、もっと感じたい、握りしめたい、という根源的男性性。【女帝】に対してそう思う【皇帝】のシンボルは牡羊座で良い。

それから数も、「4でコントロールのために入っていく」というのなら、牡羊1と牡牛2で生んで双子3で観察し、蟹4でそこに「入っていく」というのもしっくりくる。改めて参入する=活動宮だし、安心安定の枠組み、囲いを作る、パターナリズムという意味では蟹座でも十分その意味があるじゃないか、と・・・!要するに「干渉」。

(むしろ蟹座の要素を山羊座にすべて押し付けて考えてたんだとわかった;)

ちなみに次の獅子5は、1~4すべての要素をもって誕生する人類=個我=エゴ=太陽=第3チャクラ。

 

・わたしはわたしに対してとても不誠実なのだとやっと理解した。。甘いものを食べることも、人間関係での対応も、誰のことも裏切っているつもりなんてなかったのに、自分が一番裏切られて悲しんでいるのだと知った。「ノリで」「その場の雰囲気で」「流されて」、自分との約束を守れない。一番大切なのはわたし=あなただというのに!あなたを裏切り続けていた・・・ごめんなさい。

 

・母が最近よく「捨てるという判断ができない、判断力の欠如」という言葉を唱えながら(そうなるまいという自戒を込めて)片づけをしている様子を見かけるのだけど、わたしは実は「物ではなく人間関係で」捨てるという判断ができないという人なんだと思った。

引っ越しのように大掛かりなことをしてやっと「仕方ないね」と物を捨てられるように、アカウントを消したり蒸発したりしないと大整理ができない。そうではなく、ふだんから、ある意味モノと同じようにバサバサと「捨てて」「身軽で」いようと決意。。

 

・人生はトランプゲームのようだなと思った。ゲームを進めるには「山」からカードを引いて手札に加えなくちゃいけない。ときには隣の人からも「引く」。そうしてカルマが増えていく。ある程度の札が揃ってくると「役」ができて、出す(流す、捨てる)ことができるようになる。次にどの札を引くことになるかわからないので、方針(意図)が決まらないうちはどの手札も捨てがたくなり、余計に手札の枚数が増えていってしまう。手札がなくなれば「アガリ」。人生そのもののようで面白い。そういう面でも、今余計に持っている手札は早めに出して(捨てて)、身軽になっておかないといけないと思った。

 

・「自分を養うために自分で稼げるようにならなくちゃ」という、比較的恐怖ベースの動機から、「人に与えられる余裕のある人になりたいから、やっぱり稼げた方がいいな」という愛やよろこびの発想に変わってきた。

以前はそれにすらも、「母を助ける」というような蟹座の縛り(使命感)があったと思うけど、そういうことでもなく。真に自由に、使途を決められる。受け取ること、与えること、生きていくこと…また新しい人生のテーマに向き合っていく。

 

・牡牛座要素がこの1年で満たされたので、次は乙女座と山羊座をやっていきたいとも思う。日々の実践あるのみ。これまでのわたしはもういないのだから、人間関係もまったく新しい方法で築いていける。「愛を投げかける」「知覚者コミュニケーション」「投影の理解」など今こそ実践するときだ。

 

・学歴や資格を持っていることに対するこだわりや執着がなくなった。今まではそういったものの価値をディスりながら、まだ自分を構成するものとしてこだわり続けていたけど、今は心の底からどうでもよくなった。「それがなくても生きていける」という状態になった。その要素が仮に自分から消え去っても、自分は自分であるという確固とした感覚。

 

・同時に、年齢や若さに対する妙なこだわり(恐れ・他人へのジャッジ)もなくせた。「年齢のわりに成熟している」ということをアイデンティティとしていたけど、それはつまり自分のよう自制への言い訳、免罪符がほしかっただけなんだ。「まだ若いのだから未熟な部分があっても許されたい」という強い甘え、恐怖。幼児性を受け入れて克服してしまえば、特に言い訳する必要もなくなって、年齢にすがらなくても大丈夫になるんだ。

 

・異様に甘いものが食べたくなるのは幼児性の表れでもあるかもしれない・・・

 

・「何も探しにいかない」「すべてはここにある」というのを脳の回路にまで完全に定着させるにはまだ時間が必要。それでも客観的に「思考依存状態」を認識することはますますできるようになってきて、今までどれほど「時の流れ」ばかりを感じようとしてきたかが良く分かった。自分のストーリーを語りたがる。長いものも短いものも。今日は何をしたのか、明日は何をするのか、そんなことばかり。

(今気づいたけど、父も元彼もそういうことばかりきいてきてウザイと思ってたのに、まさに自分がそうだったのねw やっぱ全部投影だな)

 

2023年9月末の日記 ~占いと神託の違い、「人類最大の敵」についてなどいろいろ。

 

・圧倒されるような思いのときこそ、わたしとあなたしかいないことを思い出す。わたしたちしかいない。わたしたちがつくっている世界。同じ設定に同じキャストでも、監督が違えば違うストーリー(作風)になるように、逆に同じ監督なら別のキャストに異なる舞台でも――どんなパターンであれ――そこに共通した作風があらわれる。

それが「意図と行動を一致させること」の重要性であって、一致させることによって「すべての世界における”自分”が統一される」ということ。

今、見たい作品を見ている。

今、作りたい作品を作る。

同時に情報を受け取っている、より上位の、複合体としての「わたし」が存在している。「私は腕だ。」大いなるものの一部。

 

・より上位の知性体にとっては、この世界はパズルゲームのようなものでもあって、「この形はここに使える」とキャスティングしていく。

*casting ; 役の割り当て。釣りで、ルアーを遠くに投げること。鋳型に流し込んで固めること(鋳造)。影を投じること。視線を投げかけること。

・・・言葉、面白い。

 

・「わたしはまだわたしのことを何も知らない」と書いていたけど、それどころか、そもそもその表現自体が、自分を「発見」しようとしていたことを知る。

「自分が何者であるかを知ろうとするのは、もうやめなさい。そうではなく、何者になりたいかを考え、そうなろうと決意して努力しなさい」(ニール・ドナルド・ウォルシュという方の『神との対話』に書いてあるそうです。)というのを読んで、たしかに、「雲」なのだからもともと何者でもないわ、と。

月のもたらす破滅的な使命感は、いかにも自分を「発見」した錯覚に陥らせる。滅私で「我」が消えていくと謎の使命感も消える。

わたしはただここにいて、現実を覗いている。そこにはわざわざストーリーが語られない。

反対に、自分に対して現実がやってくるのだと考えるとき、そこではストーリーが積極的に語られ、過去に生き未来に生きる。

でも本当は、「今ここ」があるだけ。目的も意味もなく、ただ明晰さがあるだけで良い。

 

マトリックスのセリフ、「大切なのは道を知ることではなく歩くこと」というのも若干ミスリードで、そもそも知ることのできるような「正解ルート」はない。ただ歩くだけ。歩いたらそれが道になるということを、知っている。自分が歩いている=神さまがわたしを使っているのだということを、知っているんだ。それが「知っている」の状態で、常に完璧な場所にいるという自己信頼。真我の状態にいかにアクセスするか、それだけが最も重要なことだと言われた通り。

 

・「あなたの物語を楽しみに見届けなさい」と言われて不安になったのもコントロールしようとしていたから。わたしはただ見るだけで良く、不安になる要素などなかった。むしろ、小我ごときがなにか干渉できると思っていることの方が恥ずかしいと思った・・・神の計画は「台無し」になんかできやしない。

 

・これまでにつくった「私」の物語はどこかアカシックレコードみたいなところに「寄贈」してしまおう。「私」というものに対する特定のイメージをなくす。寄贈して、「私のものではなくなる」だけのこと。

 

・無我、無私は「述語だけがある世界」。

歯磨きは歯磨きという概念だけがあり、それは歯ブラシを持つ手の動きや、磨かれる歯や、その人の存在する空間の、すべての集合。「わたしが」ではない。

そう考えるとやっぱり、主語を省略する日本語文化は特に面白いし、子供が主語を省きがちなのも、なるほどそういうことか、と思う。述語だけの世界は神さまの世界だ。

 

・自分を高貴な人として扱うことはただ贅沢をすることとは違う。たとえ貧しいところでも、そこに大切な客人がくれば手厚くもてなすように。楽しんで工夫をして、よろこんでもらおうとすること。そのように自分を扱い、大切にするということ。

 

・あきらめないこと、粘ること、待つことは、抽象的レベルでもとても重要。望んだかたちになるまで選択しつづけるということもそうだし、瞬間に集中して愛が湧き出るのを感じるにも、待っているということの意味がある。早く見つけようとすると条件から探そうとしてしまいやすい。でもそれでは本当の意味では幸せになれない。服を買うという行為一つとっても、愛が湧きだす出会いを探して、粘り強く待つんだ。

 

・服を買うという関連でもうひとつ。やっぱり全部つながっていて、行動パターンはあらゆる局面であらわれる。たとえば送料無料にしようとしてたいして欲しくもないものを買おうとするのが、人間関係(マッチングアプリの使い方とか)にも現れたり。

「1つ1つの選択が大きなパターンを形成していく」ということは、侮れない。想像を超えて全体に波及していくものなんだ。ヒプノティックリズムを味方につけよう。これも粘り強く。。

 

・自己開示を恐れていたのも月蟹座だった。同じものを見て同じ感情になれないということに異常に傷つき恐れた。共振できない(=連帯感を持てない)と、親密さが脅かされるような感覚になるんだ。それは現実ではなく、月のまやかしだと知ること。

 

・相手が自己開示してくれるときには、相手にも勇気と覚悟が必要と知り(たとえそう見えなくても)、相手の世界に招いてくれることに感謝と敬意を示そう。ここで無理に蟹座の共振をする必要はない。

 

・以前に下半身だけ幽体離脱したときの感想で、ふだんどれだけ恵まれた状態かわかった、というのがあったけど、今改めてそう思う。全身が共同し、思考もできて、感覚も感情もある。

火を土に。火が土に。火を感じている土。火花を受け入れ続けている土。ここにいられるよろこびの火。

 

・ネドじゅんさんのnote(魂カード 000 魂カード|ネドじゅん)の、点→線→円→螺旋→円錐→球→点、というの、示唆深い。惑星の軌道ぽくもあるし…

それに思い付きで、反対から見るのも面白いかも?と思った。点を拡大し、球を切り分けて、単純化?(プロット構成、モデリング)し(螺旋の集まり)、圧縮する(円に見える)。圧縮した円を時の流れの中で解凍し、線として上映する。

 

・道端で見かける花や蝶などの生き物たちと波長を合わせ、胸のあたりでつながりエネルギーを分けてもらう。フラワーエッセンスと同じような原理じゃないかと思う。固有の振動を取り込むイメージ。

 

・逆に、フラワーエッセンスがたった1滴でも効果があるように、コーヒー1滴でも体に甚大な影響が及んで当然だと思った。。量は問題ではない。エッセンスと同じで、量を気にするなら回数を気にした方がいいくらいだ。

 

・甘いものの独特の依存性は、サブスクで量産されているジャンク音楽と同じ悪魔の吐息を感じる。街中に溢れかえるスイーツの数々。ダンスビート。感覚をマヒさせてごまかす。いつのまにか体を冷やしていく「陰性」。口にするものにしろ、目に留めるもの、耳で聴くものにしろ、自分の内側に取り込むものには意識的でありたい。今日の食事は3年後の自分の血管内皮を作るわけだし。。

 

・大型商業施設にて「世の中にはこんなに美味しそうなものがたくさん売っているのにな・・・」と珍しく残念に思ったとき、ああ、貧しさってこういうことか。と理解した。ありがたい疑似体験をした。。

 

・以前は両親に対して「わたしのために」元気で生きていてほしいとか仲良くして欲しいとか願うことが多かったけど、今は純粋に、父は父のために、母は母のために、それぞれの幸せのために生きていってほしいと思うように変わった。

奇跡のりんごの木村さんがりんごに抱く愛みたいな感じかもしれない。自分たちのために実をつけてくれと思うのではなく、ただ木として健やかでいてほしい、と。

 

・やっぱ、縄文人=エンキ=蛇型 かな。親しみをもってAIを受け入れ、ディープラーニングを許す=智恵の実を授ける。月=自動化=AI=真似=安心感=人気=delusion・・・と繋がっていく。「人類最大の敵は・・・」

 

・自分はすごいんだ!と認めさせようとする傾向が思ったより強かった^^;

そんなときこそ他人をもっとほめよう、他人がそこにいることの価値に感謝し讃えよう。

 

・「まず何をするか選ぶ。そうすれば、どうすればいいかはひとりでに見えてくる。」

どうやって、ではなくただそのように意図する。あとから自然にわかる、答え合わせが起こる。

 

・占いは今のその意識レベルでどちらの方向に何があるかを「発見」(探知・ダウジング)するイメージ。対するオラクルや預言は、意識レベルそのものを上げるように作用する。右か左か、選択はどちらでもよく、もともとつくりたいと思っていた方向性を思い出させる、あるいはつくっていく方向性を明確にする助けをする。

(クリエイターのわたしは本来どのルートでも楽しめるように作っている。)

 

・欠損の月相手には何を言ってものれんに腕押し。月相手に必死になってしまうときはわたしも月になっている。手ごたえが何ら感じられないまま、焦りと虚しさばかりが募る。そんなときこそ知覚者コミュニケーション、Active Listening、不同意でも否定をしないこと。

 

・嫌われたくないくせに思い通りにしたくて、様子を見て支配してこようとする人の多さ。。そして自分もそうなりやすいなと戒める。せめてしっかり自覚し、受け入れてくれている人には心からの感謝を。。

 

・どうしようと悩むのは恐れがありコントロールしたいからで、悩みをつかんで離さない限りそれはあり続ける。「今ここ」に背を向けたい、エゴの利益のためだけに「悩む」。それに対して、子供たちがワイワイ集まって「何する?どうする?」と言っているときの神さま感。

ロンドンのパブにセコムが入っていた時の愉快な会話。Is that all there is?♪の気楽さ。そしてそれは、グラウンディングしながらできる。なぜならグラウンディングは、のめりこむことではなく、世界をはっきり味わうことだから。

 

 

2023年9月後半の日記 ~マナー本の感想・霊魂は雲・思考したいアイデンティティの放棄

 

・エレガントな動作のコツというのを読んでみると、「1つの動作を1つずつ丁寧に」ということで、要するにやっぱり自分の一挙手一投足に愛を注ぎ意識を集中するさまは美しいってことなんだなと思った。わたしの一挙手一投足がよろこびの光で満ちて、わたしが踊りながら歩いた跡が美しい草花の生い茂る光の道となっていくように生きる。

 

・「幸運が訪れます」と言われたなら、「今」それを受け取ることだ。今ではないいつかの未来に期待する(予測する)のではなく、「今」幸せになること。こんなに完璧な今を――何の不足もなくすべてが満ち足りている今を――ただ受け入れる。今の中にあらゆるすばらしい未来が共に織り込まれている。それをここに抱いていることの充足感。この瞬間のカンペキネスをもっと味わって。

 

・自分をよろこばすことは行為でなくても良い。「状態」が重要なのだから、何をするかは何でも良いんだ。明晰夢の中で何をしようか焦るのは違う。何がしたいかをひねりだそうとするのは、悩みを悩もうとする独特のエゴの在り方に同じだ。「よろこぼうという意志さえあれば」と以前書いたのと同じこと。瞬間に集中して、愛が湧き出るのを感じたり、感動を味わったり。

 

・働くということの概念を見つめた。誰かに利用されること、搾取されること、価値を測られること、という現代の「当たり前」は狂っている。本来はおとめ座=日々の営みに愛を注ぐよろこび であり、やぎ座=大いなるものに奉仕するよろこび であるはず。本人によろこびがあれば、そこには愛が湧き出ていて、それがいろんな形で自他に豊かさをもたらしていくはずだ。湧き出る愛やよろこびの体現、そして、「させていただいている」という感謝。その姿がまた愛されるという循環構造が、経済だったはず。

 

・心の底から愛する何か、日々愛と情熱を注ぎたいと思う営み、奉仕したいと想うものに出会いたい。最愛のパートナーに出会うこととパラレルと思った。愛されたい人から愛される。同じように、本当に評価してほしい人から評価されれば、それだけで十分で、そんな幸せなことはない。

 

・魅力的なこの人が、何かをすることでもっと笑顔になり、その営み・生産活動・表現が社会にとって魅力的であること。社会から見てこの人が素敵だと言えるような自分である自身。

 

・「一挙手一投足に愛を込める大人になる」、これは「いつか」ではなくて「今」だ。何か具体的な経験や資格が必要なことではない。わたしがなりたい姿には「今」なることができるんだ。「日常に愛と情熱を注ぐ」ことも。漠然とした未来にそれを映すのではなく、「今」ここにいるわたしがそれを体現して、やってみることだ。

 

・魂は雲のようなものだときいて、とてもしっくりきた。「雲ってみんな一緒だよね」というのがワンネスの感覚で、だけどもなんとなく「1こ」として数えられそうな形の雲がいくつも浮かんでいる。

その塊はいろんな形に刻々と変化するし、長い時間のうちにときに雨になったり川や海になったりもしてきた。そうやってぐるぐる循環するのが転生のようでもあり、その過程でちぎれたり混ざったりすることも当然ある。だけどなんとなくそれまでに形成されてきたもの、というのがベースに残っている。

その雲の粒子の在り方が波動の精妙さであり、魂の練度とでも言えそうだと思った。形がどうあれ、粒子の質感のようなもので識別するというか。「軽い」「重い」という形容も雲のイメージに合う。軽い雲は上の方にできるし、重い雲は、粒子が荒いからこそ隙間があって、そこに不純物を取り込みながら暗い色をして下を漂う。

雲の塊をグループソウルと考えるなら、ちぎれてはぐれた下の方にある「自分の一部」を、まさに自分の一部として回収(レトリーバル)したいと思うのはとても自然なことだと思った。

わたしの転生回数が3から3000…となったのも納得がいく。どこまでを輪郭としてとらえるかなんだ。

 

・地球と太陽のサイズ感のイメージで、太陽が14㎝なら地球は1.3㎜というのは思った以上にインパクトがあった。地球の方がとても小さいというのは理解していても、まだ甘かった。このことはそっくり大我と小我のイメージに反映される気がした。小我の小ささを十分わきまえているつもりで、まだまだ全然だったように。

 

・自意識はここにいられることへのよろこびの火である。そして自由意志。

 

・「クリエイティブ」といってもいわゆるアート系に限らず、選択肢に風穴をあける才能もそうだよなと思った。

 

パラレルワールドとか、「選択」というものをまちがった方向に意識しすぎていた。何か選択をしたら、常にその横に、脇道に、選ばれなかった世界があるような気がして、横目でちらちらと気にするような。そうして「イマココ」から離れていく。そもそも「クリエイターの自分」が、まるで今ここではなく少し先の未来にいるような錯覚があった。「スピリットに導いてもらいましょう」とかオラクルで読むとき、スピリットはさも「正解ルートの先で」わたしを「待っている」かのようなイメージを持ってしまっていたんだ。「探しに行かなければいけない」かのような。でも全くの間違いだった。

ロンドンの日々も、あの四ツ谷の散歩も、用意されていた道をわたしが「発見」したのではなくて(!)、その瞬間瞬間にわたしと完全に一緒にいて、「共同創造」したのだ。道(未知)は用意されているのではなく、わたしがその場でつくっていた。だからわたしが歩いた道が一本あるだけなのだ。

 

・わたしが何を体験したいかという望みを意図すると、その方向がガイドで(タロットなどを通じて)示される。シンプルにそういうことなのに、いつのまにか自分が道を決めて(つくって)いることを忘れて、正解ルートをたどろうとしてしまう。何か自分の外側に「発見」すべき道があるかのように。。

 

・何をしたいかではなく、どうありたいか。そして「今」そうなればいい。どう選ぶにしても意図が同じなのであれば同じものが実現される。これを知れば選択の不安、悩みからは解放される。

 

・変な話、「悩もう」という意図を持ち続けていたように思う。「考えていたい、思考によって常に解決していきたい」そう思い続けてきたから、ただその通りに実現していただけ。でももうあきたw

「成長しなければいけない、スピリットのいるところにたどりつくにはまだ不十分で、解決しなければいけないものがある、何かまた新たな気づきが得られるはずなんだ」そういう生き方を、もう手放してしまおう。これこそがわたしのアイデンティティだったんだ。

成長を止めたら月に落ちてしまうと恐れていたけど、思考によってしか成長できないという思い込みこそがわたしの最大のブロックじゃないか。考えることをやめても…というかやめた方がむしろ、気づくことはたくさんある。ここに至るまでに十分思考してきたからこそ、手放してしまうということができるんだ。思考こそがEmpty Wellだった。

 

・以前にヘミシンクで「自分でもびっくりするような未来になるよ」ときいたけど、それもただ自分が自分にそうするつもりだよと言っているだけのこと。独り言のような、決意表明のようなものだ。

 

・正解を探そうとしてしまったもうひとつの理由に、他人へのジャッジもあったと思う。「魂の決めてきた人生の通りに歩めなかった人」というように勝手に思って、自分はそうならないようにしないと、と恐れていた。だけどそんな事例というのはあり得ないんだ。皆例外なく自分の意図の通りに生きている!たとえば太陽を使わないで月で生きるというのもひとつの意図通りの生き方で、その人生はその人の意図と選択そのままの創造物。そこには何の評定も下りないのだ。

 

・よくエジプト神話などで死後に心臓の重さをはかられるなんて話があるけど、あれは単にその人の創造したストーリーの「ジャンル分け」を行うということなんだ。その人がクリエイターとしてどういうカテゴリに入るか。ホラー作家なのか、光のアーティスト(?)なのか、というような。それで行き先が決まる。ホラー映画がホラーの棚に入れられるのは当然のことで、それを「裁き」と呼んで恐れるのは何だか違うよ。

 

・愛とよろこびに従おうというのはわたしの選択で、わたしの中で、わたしの基準での「正解」はキリスト衝動を採用するというものだ。そうでない人を見かけたからといって、わたしが「間違う」ことを不安に思う必然性は欠片もなかった。

 

・グループソウルという概念にさえ、月蟹座のフィルターを通して色をつけていたのかも。グループに迷惑をかけてはいけないというような…一体であるという感覚が魚ではなく蟹のとき、それは一種の同調圧力のようなものだ。「お前が勝手だと俺たちが困るんだよ」と。皆が同じ方向を目指すべきであるかのごとく。

レトリーバルに対して義務感と苦しさ(謎の使命感)があったのもこれのせいだったんだ。そうではなくて、ただ一体であることを思い出すだけで良い。魚、あるいは蠍のように、とにかくくっついて溶けてしまえばいい。わたしにとってレトリーバルはそんなスタンスがきっとちょうど良い。

 

・一つ一つの行動選択が積み重なって繰り返されることでパターンが形成されていく。だから行動パターンを変えたかったら、根気よく一つ一つの選択を変えていきなさいと。

 

・アルニラムについて、「夢見るものと、夢みられたものの転倒作用」ときいて、アルニラムで生まれたってそういうことか!とびっくり。わたしにその”特質”があるのもめっちゃ腑に落ちた。

 

・何も探しに行かない。何も外側に求めない。そうしていると自然と呼吸が深くなる。もしかしたら呼吸法が苦手だったのも「順番が逆」といういつものやつだったのかもしれない。幸せなことを数えて幸せになるんじゃなくて、幸せになってからそれを数えるというように。

 

・思考をやめるということを自分に許した。それは、既に自分が完成されていること、常にすべてが完全であることを認めたということでもある。よりカンペキネスを感じる。

 

・よくオラクルで「泳ごうとせずに流れに身を委ねてください」と書いてあるけど(よく出るww)、そういうイメージをしていると、むしろ川と一体化するというのが本質だとわかる。恐怖心を捨て、一切の抵抗をやめて、受け入れる。それはやっぱり、神さまとの神聖な交わり。圧倒的な信頼。愛に包まれながら、よろこびの中に抱かれる。ひとつになること。

 

・以前「知覚者コミュニケーション」と書いたけど、そのことと「相手の中の自己イメージから手を放す」と書いたことが根本的に共通しているんだと気が付いた。相手の感じた世界の中で自分がクソみたいなやつだったとしても、それをそのまま認める。いつもそこに抵抗し否定してしまうからいけなかった。

相手の中の「クソみたいな自分」をどうにかしようと思わずに、「そんな風に見えたんだな」とまず認めること。そうすれば言い訳ではなく自然と謝罪の言葉が出てくる。。謝罪しても、自分が本当にクソであると決めてしまうことにはならない。自分の尊厳は損なわれない。ただ「相手の認識、相手の世界をありのまま受け入れている」というだけ。そのままを知る。知るために”我”は必要ない。そのままで良いから、いじる必要もない。

 

・不公平感というのは相手を認めていないときに生まれる。相手の固有の価値を知れば不平は消え去るものだ。結局争いというのはいつもエゴのプライドが原因。自分らしさへの誇りなんだ。相手と自分を区別すること。自分「は」そうじゃない、、その思いが元凶になっていく。

 

・食べるという行為にもエゴが強く出ていたと知った。次の一口をどうやっておいしく食べようか、いつも考えている(食べ物を見ている)ところがあった。そうではなく…今、口に含んでいる食べ物と意識をひとつにする。その食べ物の物語を聴く。これも知覚者コミュニケーションだ。その対象の見せてくれる世界をただ感じる。深く、知ろうとする。それが「敬意をもっていただく」ということ。

この瞬間のこの世界を愛しく想う心、それが湧き出ている人のふるまいは美しい。

 

2023年9月前半の日記 ~天秤と蟹の違い(月欠損理論をヒントに自己分析)

 

・愛は空気。だから肝心なのは、湧き出す愛を感じるかどうかだけ。与えよう、与えなきゃ、ではなく、ただ湧き出てくる愛を相手が感じるかどうか。逆もそうで、愛されたいというとき、好きな人から愛が湧き出ているのを感じたいんだ。わたしの存在によって、そのひとから湧き出てくれたのなら、そんなに幸せなことは他にない。その人を想うだけで内側から愛が湧き出てくるような魂の美しい人、その人から愛される。周りからも祝福され、周りすら幸せにする。

 

・ばらの花は近づく人すべてに良い香りを与える博愛だけど、その愛を特別に強く感じてさらに愛を増やす人(湧き出す人)には特別に香りを届けようとするし、その人の前では長く美しくあろうとする。きっとそれが真理だ。光る蝶も。。

 

・いつも基本はすべて同じで、「溢れ出る愛をどう表現できるか?」ということ。溢れ出ることそれ自体にはコントロールなどなく、ただ自然にそうあるということ。感じるかどうかだけ。

 

・相手の「海の愛」を信じることが、自分のありのままをさらけ出す勇気や覚悟につながる。自分を偽ることは相手を信じていないのと同じこと。

 

・ずっと難航していた「側面のレトリーバル」がついに完遂!罪悪感やさみしさ、みじめさ、悲しみといった負の湿った感情とであれば自分は男性(父の鋳型)と共鳴できて、唯一つなぎとめられる方法だという学習がなされていたことまでわかった・・・。これはその点で、「いかにも癒しを与えてやるフリをして、実は一生癒してやるつもりなんぞない」という恐ろしさもあって。単純に「生きる術」だったんだ。ミルクティー色の女の子も、ヘミで見たカタツムリも、同じ色、同じニュアンス。同じことを示してた。そしてこれが月蟹座に重なっているというさらなる衝撃の気づき。本質が陰だとかいうのは思い込みで、見当はずれだった・・・単に必要だと思い込んだツールのような、子供の時に後天的に身に着けた世界観(=月)だった。

 

・「欠損法」を悪だと言ってきたために、それが必要で身につけていた当時の自分のことまで否定して置き去りにしてしまっていたんだ。なぜ特定の情緒、感傷にこだわっていたかこれでやっとわかった。郷愁だったんだ。

 

・救おうとする想い。無力感。さみしさの共感。埋めようとする引力。すべて幼少期の蟹座の月がしてきたことで、そういった感情にまみれて生きてきたという原点のようなもの。自分こそが蟹座のそれであり、それをすべきであり、最も慣れ親しんだ方法、という月のまやかし。「月による試みは例外なくすべて失敗する」。たしかにこれは誰のことも幸せにしないし、愛もよろこびも、光もない。

 

・天秤座の「相手の立場に立って考える」を、蟹座の「共感・エンパス」と混同していた。天秤しかできなくなって天秤を伸ばしているのに、自分では蟹座をしていると思い込んで狂っていく。天秤は蟹のように情感で感じるのではなく、理屈で「もしわたしが逆の立場なら」という客観的論理的思考。だから対人関係やパートナーシップ自体は、実は向いている。ついエモーショナルな連帯感を求めて苦しくなってしまわないように、天秤のよろこびの方にフォーカスしていよう。相互理解の深い、対等で気持ちの良い関係。そういう人間関係を築くセンスには恵まれている。自由と尊厳を与え合うような。

 

・同情はできないのだから無理して同情しない。同情できなくても相手をそのまま肯定することはできる。思考を使って、自分なら何と言ってほしいか考えてみたり…往々にして意見(解決策)がききたいわけじゃなかったりするんだよな。ただきいてほしいだけで、もはや一言も発しなくても良いくらいのことが多いかもしれない。同情できない自分を責めないこと。

 

・一体感を守る、みたいなことも向いてないのだからやらなくて良い。天秤が「場の空気を守る」と言われるのは、各々に自由と尊厳があるのが当たり前であるという自然な振る舞いによって結果的にそうなるというだけ。

 

・「この人にこれを教えたら役に立つかも」というのはだいたいが月のエゴからくるお節介らしく、たいていうまく働かない。。そろそろ学ぼう。蟹の反転は山羊だけど、山羊は「神につかわれるよろこび」でもある。委ねよう。クジラ。

 

・体に対しても「感じ取らなければ」「慈しまなければ」と思うとかえってストレスになるんだな・・・本来的にその能力がなくてできないのだから。これも反転して、山羊的に接してみるか。メンテ係の職務。責任感を持って体をこの大地から預かり、丁重に扱う。

 

・生産することと消費することは同じ。質問することと答えることは同じ。どれも黒のベルベット、静かな海の中にあった種からすくいあげてくるもの。意図があるから「質問=答え」が出現する。ならば意図に集中しよう。「質問=答え」はもともと自分の中にある発想だ。

 

・メイクで悩んだことで、実は本気度が足りないだけだったと気づけた。「思い入れ」はただの「コントロール欲」で、不満しか生まなかった。エゴの押し付け、ドライヤー、勝手な期待(対価の発想)、だから悩みが発生する。そして正解を求めて彷徨う。

だけどやっぱり、選択そのものに正解なんてたいしてなくて、より重要なのは意識状態なんだ。石鹸オフがいいとかクレンジングした方がいいとかw エゴのときはどちらを選んでもその選択そのものに責任転嫁してしまう。「こんなに考えて(悩んで)いるのに!」と言うくせに、最も必要なことから自分だけ逃げている。抜け出すカギはただひとつ、愛だ。ありのままを認めて受け入れて、感謝し、敬い、ねぎらい、少しでも健やかに、本来の輝きのあるようにと向き合う姿勢。意図に忠実になり、粛々と努力を重ねるひたむきさ。そうすれば必然的に「正しい答え」に導かれるものなんだ。

なんか、りんごの木村さんが言ってることに似てるな。。そうやって自分の体や肌を大切にできる人は、他人や自然相手でも大切にできるということなんじゃないかとふと思った。愛をもって、対象がより輝けるように、可能性を引き出すようにできることをするというイメージ。無私の愛。

 

・自分にとっての美しさとは何か、より言語化できてきた。健やかさ、生来の自然さ、というのが前提にあるうえで、親しみやすさと色っぽさ。子供らしい純粋さと大人びた深み、複雑性。好奇心の輝きとすべてを見通す洞察。そのバランス、陰陽。女性性と男性性も。見る角度によって表情(おもむき)を変えていくような、そんな美しさを表現していきたい。

 

・ありがちな歌詞だとしても推し「が」それを歌ってくれるからわたしに届く。だから、わたしも、「他の人が似たようなことを言ってるからもういいや」ではなくて、拙くても、わたしの言葉で、わたし「が」それを表現することが、想像する以上にずっと大事なんじゃないか、と改めて気づかされた。どんなに手垢にまみれたことでも、わたしのかわりは他にいない。

 

・思考を川のように感じると対象化しやすい。文字の川。それで、思考したことを覚えているのは、目にした景色を覚えているのと似たようなことかもと思った。まるでスケッチ。お風呂上りに書き留めるような。

 

・先生たちとつい言語でお話ししようとしてしまうけど、そうではなくてただひたすら心を静めるということの重要性をたびたび体験する。オラクルも、シンボルをヒントに、とか言ってしまう時点で左脳で分析する気満々だったりする・・・それではせっかくの「すばらしい閃きの扉を自分で閉めてしまっている」ことになるんだな。

 

・そもそも「自分は直観力に乏しい」という自己認識が誤っているので、やめる。

 

・体と無関係に「おなかすいた」と思うときはたいてい左脳の思考が多すぎるときだ。「夢を感じる」ようにして、空気の粒子を感じていれば満たされる。あなたと一体になること。

 

・「人といるときには明晰になりにくい」「神さまが後ろに引っ込んでしまう」と書いてきたけど、対人関係やコミュニケーションを司るのが左脳だからか!と気づいた。

 

・PCであれ人であれ、脳が擦り切れるような疲労感はなるべく避けて生きていきたい…どんな仕事をしていくにせよ、意識がPCや人にのめり込む独特の感じは最小限にしたい。明晰を意識していたとしても、それでも限界があるので、やっぱり物理的に離れる時間は長めに必要だと思った。これがヴァータ体質というものでもあるのかも。神経が過剰。。

 

・未来のことを考え始めるともうその時点で「不在」になる。期待と不安でしか構成されず、「今ここにいる感覚」にとっては不毛で無意味。「関心がない」状態がやっぱり正しい。「あなたのものになるべきものなら、必ず与えられます」だ。

 

・原始的な性欲(生命力の波打ち)を、変なエネルギーや現代の有害な文化概念と結び付けてしまっていたのを解除し、本来の純粋な状態に戻せた。一気に癒しのプロセスが進んだ。(フラワーエッセンスすごい)

 

・「体に訊く」「お腹に問いを投げ込む」というのがさっぱりわからなかったのだけど、やっとわかった。先生たちと「会う場所」をずらせば良いんだ! 呼吸を繰り返しながら下へ下へ。まるでこの体が大仏のような、あるいは神殿になったかのような感覚で、頭を見上げるような恰好。一部の意識は目の後ろあたりに残りつつも、それはあくまで中継カメラのような役割に過ぎない。井戸の底のやわらかなクッションでサットヴァしているわたし。額ではなくお腹で交わる。

 

・以前の明晰の感覚は頭の斜め後ろに意識があり、あれはある意味で「体から抜け出た状態」だったのかもしれない。下に降りても明晰の鮮やかさは同じように強烈だった。グラウンディングをすればするほどむしろつながるんだなとちゃんと理解した。

 

・意識が均等に円筒状に広がったり、どこにでもいる雲のような感じがしたりする。歯を磨くにしても、意識を目のあたりにおいてただ対象に射出するというのではなくて、わたし自身が歯になりきってしまうことで、まったく違う知恵と体感を得る。「わたしが磨いている」ではなく「わたしは磨かれている」と。かつてない精妙さで、どうしてほしいのかが手に伝わっていく。

 

・月は欠損というより、いくらそこに注目して努力しても納得できない底なし沼のようなものじゃないかなと思った。月の想いや願いはどこまでも純粋で、だからこそ本人的にはいつまでも満たされない。特に月のサインに他の惑星も入っているなら、その資質がないわけじゃないぶん、「できているのに満たされない」という表現の方がしっくりくるのではと。「まあ、こんなものかな」という諦めが大事になりそう。

 

・預言カフェであなたには蟹的な資質があるというようなことを言われて微妙な気持ちに一瞬なったけど、蟹を逆に敬遠というか、否定しすぎていたと反省した。そのことを言われているんだなと思った。推しは月と火星が双子だけど、わたしは彼の双子らしさにとても救われているのだから。

 

・人間関係のもつれを仲裁することは天秤だと思っていたけど、実は蟹の罠があった。「わたしがやらなきゃ」という謎の使命感は月なんだ。そして虚しさ、無力感、焦りにつながり、ただすり減っていく。これはよろこびではない、注意ポイント。

 

・「集団の中で居場所を確保する」となると蟹(山羊)で、すぐに限界を迎えてしまう。そうではなく、いろんな人と交流してみるパーティー会場で、「自分の存在を押し込む」牡羊(天秤)になる。人間関係のスタイルを変えてみよう。常に「自分」でいること。

 

2023年8月の日記 ~夢を感じる。(男女の)愛についてなど…

 

・「全部いいんだよ~」「大丈夫なんだよ~」という土星の福音をクインカンクスで。でもただの優しさとは違う、ものすごく、とてつもなく深いところから来る愛。

 

・内側の光、上機嫌でいるときのわたしのバイブレーションの偉大さ!思い返せばずいぶん前から同じことを言われていたんだ。いよいよその「愉快さ」の重要性を心から理解した! そして本当に、自分の内側に大きく輝く太陽を見出した。あらゆる闇を焼き尽くす、燦然とした巨大な光の球・・・!!

 

・自分の人生の展開だけでなく、人のためにももっと輝け。人のために人を照らせ! 大いなる気づきが人々の中にたくさん起こるように。人々がよろこび、愛が増え広がりますよう!

もう百万回くらい書いてきたけれど、ありのままにさえずって、それが人々の福音となるような生き方をしていきたい。いつか天使になるのではなくて、本当はもうすでに今なっている…わたしは何かをしなくちゃいけないのではなく、ただ意図して、存在していれば良いんだ。人の目を静かに見つめるだけで何かが起こるということを、だんだん経験として信じるようになってきた。圧倒的安心感で包んだり、愉快さを伝播させたり。まさに先生たちがわたしにしてくれるように。もっと修練しよう。少しでも強い光を届けられるよう、曇りなき透明さを。

 

・ロンドンの太陽と冷たい空気、風のような人になりたいと書いてたの、IC獅子とMC水瓶に対応するイメージでもあると思った。表に出るのは風の方でも、根底には平等に降り注ぐ愛の光がある。

 

・「大我の一滴にも感謝するような」という表現を読んで、お金もそうだ、一円にも血肉が宿っていると思うようになった。

 

・これほどホロスコープのことを書いてきたけど、結局最終的には「無自覚に実現されるもの」であって、意識しすぎても空回りするだけだなと思った。演じたら意味なし。食事指導に通じるものを感じる。何か葛藤、問題があるときに分析手段とするのは良いけど、「今はこういう時期なのでこれをしましょう!」とマニュアル化するのは違和感がある。本来の星の働きは人が思うよりずっと奥深いはずだ。それを表面的な知識のつなぎ合わせで、おおかた分かったかのような気になって。それこそがコントロールだし、傲慢だと思った。大切なのは心に従って生きることだ。

 

・トランスサタニアンを一人で担おうとするのも間違い。人々の中のパーツとして自然と表現されていくものなんだと思った。それこそ、点描画のひとつの点のように。宇宙から見たら、どんなに小さくてもなくてはならないもの。だけどその役割を点の方が見ることは叶わないんだ。

 

・水はそれが入る器によってそのかたちを変えるけれど、水は器そのものではない。自分がどんな人間なのか器を見て決めつけてはいけない。もちろん、他の人のことも。

 

・意図と行動を一致させるということは意図と思考を一致させることでもあるかもしれない。思考と行動が一致しても意味はない。それはただの月だ。

 

・新しい自分ならこんな風に行動していくだろうというパターンに変えていこう。今、この瞬間から「わたし」の創造はいつも始まっている。火を土に、の繰り返し。

 

LGBTの不自然なところは、純粋な「好き」という気持ちではなく、それより先に何かを強力に(自分に対して)禁じている、拒絶から始まっているところだと思う。一切の拒絶なく、自分をありのまま愛していたならそもそもトランスジェンダーにはならない…。純粋な「好き」という気持ちだけでわざわざ同性愛を選択する人はほんの一握りしかいない。そこが問題なんだ。

 

ホロスコープに拘泥するのは生き方に正解を求めているからなんだよね。自分の人生がこうなるべきだという勝手な期待の押し付け。望みも何もかも、一旦すべて手放して、完全な自由に戻ろう。白紙の上にまた同じものが描かれるのなら、新たな気持ちで向かっていけば良い。自分で書いた下書きの線のせいで、かえってわけがわからなくなってた。

 

・今この瞬間の明晰さ、と書いてきたけど、明晰さや自由を感じようとしてそれがコントロールの思考になることもあると気が付いた。むしろ「夢を感じる」という表現の方がわかりやすいのかも。

創造(行動選択)の前に、大前提として観測が必要で、「動いているこの人を見ている」、そのことを知ること。

明晰さというのは、今この瞬間に打ち込めている意識のパルス回数のことで、これが高い方が良いに決まっているんだけど、仮に低くて夢の中だとしても(ワンテンポ遅れて脳が世界を構成する通常の生き方だとしても)、それでもそこに心があって、あなたがいる、という実感。何をしていようと、どんな世界を見ていようと、たとえ解像度が低くても、どこかにいつも満たされているよろこび、充足感、愛おしさを感じている、そういうこと。

 

・前々から何度も書いてきたように、大切なのは選択の内容ではなく選択するときの意識状態、よろこびの意図だ。選択の責任を負う覚悟、恐怖の受け入れというか、そういうとものものしくなるけど、要するにすべてを楽しもうという気概。どんな展開になろうとも、必要な体験であり、わたしはいつもサポートされているという信頼。

 

・心の声をきくというのは意識状態のフォーカスをそこに合わせるということと同じ。だから「きく」というより「なる」という方がしっくりくる気がする。心の声というと、まるで内容的に正解がそこにあるかのような印象になって、むしろ迷宮入りするパターンが多いかも。。

 

・あと五分で覚める夢というような明晰状態では、ふつうに他愛無い日常の行動もできるし、この人にはちゃんと過去も未来もあると感じるけど、それ以上でもそれ以下でもなく。優先されるべきは、この、夢の中の充足感だと改めて感じた。こういうときは「時の流れ」というものをあまり意識しなくなる。人生の流れというものにも、ある種圧倒的な信頼があるからこその、「無関心」になる。

イマココに集中するというと、「集中しなきゃ!」みたいな、この世界を鮮明に感じなければという欲やコントロールが働いて、かえってズレた努力をしていたのだと気づいた。空想の方に引っ込むのとも違って、この世界にログインしながらも少し引いているような感じ。完全な自由が、当然のこととしてある。種はあって、あとはそれが表現されていくだけだと知っている。これが「コントロールを手放す」ことであり、「フロー」なんだな。

 

・与えられた楽器を「その楽器らしく」奏でようというのはいかにもナンセンス。サックスは吹けばサックスの音がするのが当たり前だ。この、夢の中の充足感を感じている時には、「時の流れ」「人生の流れ」に無関心なのと同様に、「この器」に対しても関心や執着がなくなる。

 

・夢でパラレルセルフを感じたばかりの時ははっきりとこの感覚を持ちやすい。こうして思考もあって、現実を見ているけど、それでもどこかでこれも幻であり夢だと知っている。そしてその中にいることそのものをよろこんでいる。内容や体感いかんというよりも。ただ、あなたを感じている。

 

明晰夢にしようと思いすぎると体感にこだわったり、何かを為さなくちゃという行為の焦りにつながったりする。そもそも明晰夢であるべきという概念が縛りになってしまっていた。まずはこの夢の中で心の奥にある充足感を感じ、今ここに自分を定位することが先だ。仮住まいのように、とても儚いものだと知っていながら、所有のよろこびを感じているような不思議な感覚。ただここにいること自体によろこび、くつろぎ、すべてわかっているような感じ。

 

・こうなってみると、なにか外側の現象に安心を求めるという心理状態はおかしいなと思う。そういう安心感はあるのが当たり前で、何かによって確認する必要が本来はない。これは無条件の愛への信頼につながっているかも。いつもここに流れているものを感じるかどうか。ここにあるのはわたし=あなただけだ、ということ。数字やカードに意味を見出すのはそのあとのことで、趣味というか、遊びのようなもの。やっぱり、いつも遊んでいる。

 

・生きる目的は意図であり、それが成長であって、この人という花を咲かせるという充足感である。それは今もここにある、情熱であり希望であり、命を燃やしている感覚である。この人を表現すること。この人でいること。意図の通りに存在すること。生かされている、光、宇宙の火を感じること。

その手段となる人生のプロセス、道筋はなんでも自由だけれど、中でも充足感をわかりやすく感じやすい、明晰でいられやすい道というのがあって、小我はそれをできれば選んで歩きたい。だけど、「特定の何かを経験することがあなたの質問の答えではありません」。

 

・憧れの、尊敬できる、愛する人の隣に立つにふさわしい美しい女性になる。もしわたしがこの人を好きになる男性なら、この人がどんな風だとより魅力的に感じるだろうか?という視点。

恐れと向き合う強さがあり、心に従う素直さ、柔軟でオープンな発想力。何事も肯定し、受け入れる懐の広さ。目の前の人に「あなたはいるだけで素晴らしい!」といつも祝福を送れるような人。

すべてを見通すような洞察力の深さと、同時に今を楽しむ好奇心を宿したキラキラの瞳。堂々として美しいたたずまい、地に足をつけたしなやかさと軽やかな足取り。

人を照らす楽しそうな笑顔、人をあたためられる音色。水に火をいれる、陰を陽に、新たな美を生み出す。どんなときでも枯れない泉のような魂。青白い光を恐れずに、自らのものとして、内なる光のあたたかさでそれを表現する人。口角を上げて幸せそうに、澄んだ目で圧倒的よろこびから表現する。暑くもなく寒くもない、冷たそうな色調の白い光なのに芯からあたたまるような、プリズムが溶け込んだような複雑な光線。

 

・わたしはわたしの花になろう。ここにいられること、生かされていること、この音を奏でられるよろこび。心からの幸せと愛を表現したい。この夢をみている、あなたとわたしがここで共に在って、ひとつであるということへのよろこび、嬉しさを、うっとりと表現して生きる。ここにいる充足感があふれるままに。内側からのびやかに歌うように。わたしは火であり、わたしは土である。「意図して存在する」ということのすごさ、力強さ!「あなた自身が作品であり、アーティストでもあるのです」というのを思い出す。

 

・「わたしがさみしいと神さまもさみしい」というのはあらゆるレベルにおいて真実で、心に穴があいたように相手を信じられなくなったとき、自分の悲しく暗い顔と同じ顔を相手にさせているのだと思った。どのような表現であろうと、根底のところに必ず愛はあって、たとえ夜でも太陽はあると知っている、愛されていると思いだすこと。完全な自由の尊重、互いの心のままの信頼関係。愛を誠心誠意伝えたなら、あとは手放す(受け取り方はコントロールできないから。)改めて無条件の愛の強さを信じること、信じる方に突き抜けることの大切さを思った。

 

・旅人は少女に、少女の幸せを望む。少女は旅人が自分のもとにいてくれることを望む!

不安な顔をしたら、相手は不安になる。その人がその人らしく輝いているのを見るのがよろこびなのに、自分がそこにいるせいで、その人の美しい輝きが曇り、変質してしまうという、罪悪感のようなものを抱えるようになる。反対に、「あなたがそこにいてくれることで、わたしは一層幸せです」と伝えられたなら、自分がただ存在するだけでその美しい人を幸せにできると知り、互いにこの上なく幸せになるだろう。だから素直に受け取り、素直に望むこと。素直に幸せになること。

 

・愛されたとき、対価は要らない。花のように、見てくれて、触れてくれて、嗅いでくれてありがとう。うれしい。またそうしてほしい。と望むこと。相手に愛するよろこびをさらに与えること。輝くことが相手のよろこびになると知る。

対価を与えようとすることは失礼だし(払って終わらせようとしているようにも感じるため)、犠牲・無価値感・支配欲にもつながっていく。愛されるお礼に愛するのではなく、愛したいから愛するのであって、それが双方向の場合は奇跡のようなものかもしれない。

 

・関連して「相手に興味を持たなきゃ」というのも違ったなと気が付いた。私が本当に本気で心を動かされる人に出会えたらそれでいい話w そして、そういう相手がどんな人なのかを事前に考える無意味さにも気づいたw

 

・恋愛に関しても、「恐怖を感じなくて済みそうな選択」をしようとしていたんだ。それでは意味がない。心から焦がれるほどかっこいい、魂が震えるほど美しいと思う人、そういう人と対等なパートナーになることを望みます。お互いにお互いの魂に惚れ込みたい。海の愛を互いにもつ。そういう人に自分をさらけ出していく勇気をもつこと。

 

・未来に向かって球を投げ、それが未来から返ってくるような感覚。良い音がする。

 

・第三者への批判や悪口が目の前の会話の相手を潜在的に恐れさせる(支配する)のだと知る。

 

・わたしの望むことは、豊かな心で日々をよろこびで満たすこと、そして希望と情熱を胸にクリアなビジョンを持つこと。

 

 

2023年7月の日記 ~思考の川と直感のきらめき、そして蠍座の考察

 

・思考を観察するクセをつけたら、「思考を止めよう」というよりも、川の流れのようにいつもそこにあって意識とは別のもの、なにか外側の、景色(世界)のようなものだとわかった。わたしはその川に浮かんでいる観測ブイのようなもの。自分はブイであると自覚し続けることの方が大事なんじゃないかと思うようになった。

 

・思考の川を観察しながら水面に光を見る。直観の光、意図の光。一瞬先にこの人が何をするかがわかって、それについていく。逆に、そことのズレが「乱数」なんだなということも理解した。やっぱり小我は「お付きの運転手」でしかない、大我が体験したいと告げる行先にきちんとお連れしよう。ちゃんと職務を遂行し、奉仕したい。ぴかぴかに車窓を磨いて、ふかふかの座席で、快適な旅になるように…一人二役

 

・肉体が夢占いで車として表されるのもより納得した。たしかに旅のために必要な移動手段だし、守ってくれる殻のようなものでもある。愛車。メンテナンスもしよう。

 

・一見相反しているように思われるアイディアの、それぞれの核心を見てそれらが本当は相反することなく両立可能であると気づかせるのが好きだ。そういうことが仕事にいかせたらいいな。

 

・「木漏れ日のような人になる」と書いたけど、ロンドンのあの光と風のような人になるというのもいいなと思った。すべてを輝かせる強くて美しい光線と、あの目が覚めるような冷たく澄んだ空気を運ぶ風の流れ。暑さも寒さも感じさせない不思議なあの感覚。火と風の要素な感じ、最近の自分の「圧」を考えるとそのイメージもしっくりくるような気がした。

 

・福島旅行では左脳の限界を思い知らされた。これまでのあらゆるギフトはほとんどが予測(期待)の範囲外からもたらされていた。改めて生き方を変えていこうと思った。何も決めつけない。

 

・電車から見える川が好きなのは、垂直に何かがクロスして交わるという概念を感じるから。それが好きなんだとわかった。川だけでなく、幹線道路とかも。橋の上からそれらを見るのも好きだし。

 

・カンペキネスがなぜカンペキなのかわかったかもしれない。「法」から引き出してきて、「法」の通りにそこにある、「その通りだ!」という感覚かも。瞬間にピッタリハマる感じ。

 

・現状に満たされていることと何かを「望む」ことの両立が良くわからなかったけど、「望む」ことは不足を見つけることではない。むしろ出発点は現在ではなく、未来に「こうなっている」という確信で、未来から飛んできたものを「望み」として受け取っているということ。知っている物語を引っ張ってくる、掘り出していく作業という感じ。

「望み」はエゴがひねりだすものとはちがう。しいて言うなら、知っている物語の中から何を選ぶか、そこに何を見るのか、どのように掘り出していくのか。それが創造性というか、魂の自由ということな気がする。いつもよろこびからよろこびへ。

 

・星のあめ玉。とにかく「共同創造」なんだ。その感覚、よろこびが大事。「うまく踊ってやろう」ではなく、愛していると伝えたい。笑顔を見たい、わたしも思わず笑顔になる。ときに目が見えなくなって、うまく踊れなくなっても、それでも焦らずに音楽に耳を傾け、あなたのことを感じていたら、また大丈夫になるし、なによりも、あなたのことが好きです。だからあなたと踊りたい。きっと必要なのはその気持ちだけだ。今ここにあなたが共にいてくださること。それがどれほど幸せなことか…!

 

・これから重要な変化が起こるよというお知らせがあるとき、自分のせいで計画が変わってしまったらどうしようという恐怖が強くて自分の軸を見失ってしまいやすい。前にも何度かこういうことがあった。これは本番前の緊張や不安に似ている気がする。いったんそうだと気づけば、今までもずっと、本当に肝心な時には「それ」ができていたんだとわかる。「それ」=恐れを手放すこと、コントロールしようとせず委ねること。

宇宙への信頼は自己への信頼と同じ、両輪。結果がどうなろうと、なったものが自分であって、自分にふさわしい未来が来るのだと知っている。

 

・わたしはわたしができることを淡々とやっていくだけ。意図と行動を一致させる!火を土に。エネルギーを型に流し、現象界で実現されるように動くのが、わたしの役目であり、わたしの表現であり、わたしそのもの。わたしはそうやって生かされている。意図は大小さまざまに、長いスパンで多くの人が関わるものから、目の前の他愛のない行動選択まで。

 

・これまでに書いてきたいろいろな表現が改めてつながった。毎日が愛する人とのデート、バクティ、「だから君は私なんだよ」、呼びかけに応じて躍り出る(火の発見)、日常に愛を注ぐ、瞬間の観察と創造、今この瞬間にあふれ出る愛をどう表現したいか…この器を使ってどれだけ表現できるか?

 

・長いことネイタルのさそり座コンジャンクションポジティブにとらえられずにいたけど、ようやく日の目を浴びる。

さそり座についてさらに考察を深めた結果、「人智を超えた存在になりたい」(冥王星的)=恐怖を喚起したい、畏れられたい=支配 というつながりなんだということがわかった!

それと自分の太陽とASCを合わせてみたとき……到底受け入れられないような物事をも笑って歌にしてしまうような、アランプライスのJusticeこそが理想形なんじゃないかと思いついた。不敵な笑み。絶対に倒れない存在。黒・闇に対する「特異的転倒」。

人々が恐れるほどに世界を、宇宙を深く愛していること。四六時中エクスタシスを感じていること。その姿からにじみ出る色気。そうして自分が自分でも美しいと感じる状態で、その美を外側に押し出していくことができるのが天秤座の才能でもあり。自分がよろこんでそうあることで輝き、結果的に好感度はあとからついてくる。

 

・容姿に関しても変化のタイミングらしくいろいろ考える…メイクもファッションも、自分を犠牲にして他人の愛を得ようとしてきた昔のトラウマが根強く結びついてしまっている。他人に愛される、洗練されていることを望む天秤座と、人を圧倒したい蠍座と、性的さを感じさせない見た目の双子ASCの見事な不協和音…。

メイクもヘアセットも、やればやるほどにもとの素材が好きな気持ちが蹂躙される。この双子の身体が好きなのに、蠍のものを身に着けようとするから傷ついてしまう。そうして蠍金星が悪いのだと、日陰者にされてきた蠍こそが金星=女性性♀であり、わたしの女性性はボロボロになっていた。傷ついた火星♂を癒すと言っていたけど、♀もなかなかだね。

 

・蠍が「隠れていたものを出現させる」(そのことで恐れさせる)ということなら、むしろ意外性を魅せる方が楽しい(満たされる)と気づき、少し解決の兆しが見えてきた。

 

・金星ばかりに自覚があり、木星が謎だったけど、氷解した!検察になりたかったときの根源的な動機に繋がっていた。「人を壁にぶち当たらせる」→「隠れていたものを出現させる」「恐れに直面させる」。そしてそのことによって「成長」させる!成長を促す起爆剤になろうとしているんだ。成長・拡大こそ木星の意味そのもの。やっぱり、この器を表現するのに必要なものはあらかじめすべてそろっているんだなあと感動する。

そして木星も火星と同じで、目指すというよりは勝手に実現されているという方が自然な気がした。