アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年9月後半の日記 ~マナー本の感想・霊魂は雲・思考したいアイデンティティの放棄

 

・エレガントな動作のコツというのを読んでみると、「1つの動作を1つずつ丁寧に」ということで、要するにやっぱり自分の一挙手一投足に愛を注ぎ意識を集中するさまは美しいってことなんだなと思った。わたしの一挙手一投足がよろこびの光で満ちて、わたしが踊りながら歩いた跡が美しい草花の生い茂る光の道となっていくように生きる。

 

・「幸運が訪れます」と言われたなら、「今」それを受け取ることだ。今ではないいつかの未来に期待する(予測する)のではなく、「今」幸せになること。こんなに完璧な今を――何の不足もなくすべてが満ち足りている今を――ただ受け入れる。今の中にあらゆるすばらしい未来が共に織り込まれている。それをここに抱いていることの充足感。この瞬間のカンペキネスをもっと味わって。

 

・自分をよろこばすことは行為でなくても良い。「状態」が重要なのだから、何をするかは何でも良いんだ。明晰夢の中で何をしようか焦るのは違う。何がしたいかをひねりだそうとするのは、悩みを悩もうとする独特のエゴの在り方に同じだ。「よろこぼうという意志さえあれば」と以前書いたのと同じこと。瞬間に集中して、愛が湧き出るのを感じたり、感動を味わったり。

 

・働くということの概念を見つめた。誰かに利用されること、搾取されること、価値を測られること、という現代の「当たり前」は狂っている。本来はおとめ座=日々の営みに愛を注ぐよろこび であり、やぎ座=大いなるものに奉仕するよろこび であるはず。本人によろこびがあれば、そこには愛が湧き出ていて、それがいろんな形で自他に豊かさをもたらしていくはずだ。湧き出る愛やよろこびの体現、そして、「させていただいている」という感謝。その姿がまた愛されるという循環構造が、経済だったはず。

 

・心の底から愛する何か、日々愛と情熱を注ぎたいと思う営み、奉仕したいと想うものに出会いたい。最愛のパートナーに出会うこととパラレルと思った。愛されたい人から愛される。同じように、本当に評価してほしい人から評価されれば、それだけで十分で、そんな幸せなことはない。

 

・魅力的なこの人が、何かをすることでもっと笑顔になり、その営み・生産活動・表現が社会にとって魅力的であること。社会から見てこの人が素敵だと言えるような自分である自身。

 

・「一挙手一投足に愛を込める大人になる」、これは「いつか」ではなくて「今」だ。何か具体的な経験や資格が必要なことではない。わたしがなりたい姿には「今」なることができるんだ。「日常に愛と情熱を注ぐ」ことも。漠然とした未来にそれを映すのではなく、「今」ここにいるわたしがそれを体現して、やってみることだ。

 

・魂は雲のようなものだときいて、とてもしっくりきた。「雲ってみんな一緒だよね」というのがワンネスの感覚で、だけどもなんとなく「1こ」として数えられそうな形の雲がいくつも浮かんでいる。

その塊はいろんな形に刻々と変化するし、長い時間のうちにときに雨になったり川や海になったりもしてきた。そうやってぐるぐる循環するのが転生のようでもあり、その過程でちぎれたり混ざったりすることも当然ある。だけどなんとなくそれまでに形成されてきたもの、というのがベースに残っている。

その雲の粒子の在り方が波動の精妙さであり、魂の練度とでも言えそうだと思った。形がどうあれ、粒子の質感のようなもので識別するというか。「軽い」「重い」という形容も雲のイメージに合う。軽い雲は上の方にできるし、重い雲は、粒子が荒いからこそ隙間があって、そこに不純物を取り込みながら暗い色をして下を漂う。

雲の塊をグループソウルと考えるなら、ちぎれてはぐれた下の方にある「自分の一部」を、まさに自分の一部として回収(レトリーバル)したいと思うのはとても自然なことだと思った。

わたしの転生回数が3から3000…となったのも納得がいく。どこまでを輪郭としてとらえるかなんだ。

 

・地球と太陽のサイズ感のイメージで、太陽が14㎝なら地球は1.3㎜というのは思った以上にインパクトがあった。地球の方がとても小さいというのは理解していても、まだ甘かった。このことはそっくり大我と小我のイメージに反映される気がした。小我の小ささを十分わきまえているつもりで、まだまだ全然だったように。

 

・自意識はここにいられることへのよろこびの火である。そして自由意志。

 

・「クリエイティブ」といってもいわゆるアート系に限らず、選択肢に風穴をあける才能もそうだよなと思った。

 

パラレルワールドとか、「選択」というものをまちがった方向に意識しすぎていた。何か選択をしたら、常にその横に、脇道に、選ばれなかった世界があるような気がして、横目でちらちらと気にするような。そうして「イマココ」から離れていく。そもそも「クリエイターの自分」が、まるで今ここではなく少し先の未来にいるような錯覚があった。「スピリットに導いてもらいましょう」とかオラクルで読むとき、スピリットはさも「正解ルートの先で」わたしを「待っている」かのようなイメージを持ってしまっていたんだ。「探しに行かなければいけない」かのような。でも全くの間違いだった。

ロンドンの日々も、あの四ツ谷の散歩も、用意されていた道をわたしが「発見」したのではなくて(!)、その瞬間瞬間にわたしと完全に一緒にいて、「共同創造」したのだ。道(未知)は用意されているのではなく、わたしがその場でつくっていた。だからわたしが歩いた道が一本あるだけなのだ。

 

・わたしが何を体験したいかという望みを意図すると、その方向がガイドで(タロットなどを通じて)示される。シンプルにそういうことなのに、いつのまにか自分が道を決めて(つくって)いることを忘れて、正解ルートをたどろうとしてしまう。何か自分の外側に「発見」すべき道があるかのように。。

 

・何をしたいかではなく、どうありたいか。そして「今」そうなればいい。どう選ぶにしても意図が同じなのであれば同じものが実現される。これを知れば選択の不安、悩みからは解放される。

 

・変な話、「悩もう」という意図を持ち続けていたように思う。「考えていたい、思考によって常に解決していきたい」そう思い続けてきたから、ただその通りに実現していただけ。でももうあきたw

「成長しなければいけない、スピリットのいるところにたどりつくにはまだ不十分で、解決しなければいけないものがある、何かまた新たな気づきが得られるはずなんだ」そういう生き方を、もう手放してしまおう。これこそがわたしのアイデンティティだったんだ。

成長を止めたら月に落ちてしまうと恐れていたけど、思考によってしか成長できないという思い込みこそがわたしの最大のブロックじゃないか。考えることをやめても…というかやめた方がむしろ、気づくことはたくさんある。ここに至るまでに十分思考してきたからこそ、手放してしまうということができるんだ。思考こそがEmpty Wellだった。

 

・以前にヘミシンクで「自分でもびっくりするような未来になるよ」ときいたけど、それもただ自分が自分にそうするつもりだよと言っているだけのこと。独り言のような、決意表明のようなものだ。

 

・正解を探そうとしてしまったもうひとつの理由に、他人へのジャッジもあったと思う。「魂の決めてきた人生の通りに歩めなかった人」というように勝手に思って、自分はそうならないようにしないと、と恐れていた。だけどそんな事例というのはあり得ないんだ。皆例外なく自分の意図の通りに生きている!たとえば太陽を使わないで月で生きるというのもひとつの意図通りの生き方で、その人生はその人の意図と選択そのままの創造物。そこには何の評定も下りないのだ。

 

・よくエジプト神話などで死後に心臓の重さをはかられるなんて話があるけど、あれは単にその人の創造したストーリーの「ジャンル分け」を行うということなんだ。その人がクリエイターとしてどういうカテゴリに入るか。ホラー作家なのか、光のアーティスト(?)なのか、というような。それで行き先が決まる。ホラー映画がホラーの棚に入れられるのは当然のことで、それを「裁き」と呼んで恐れるのは何だか違うよ。

 

・愛とよろこびに従おうというのはわたしの選択で、わたしの中で、わたしの基準での「正解」はキリスト衝動を採用するというものだ。そうでない人を見かけたからといって、わたしが「間違う」ことを不安に思う必然性は欠片もなかった。

 

・グループソウルという概念にさえ、月蟹座のフィルターを通して色をつけていたのかも。グループに迷惑をかけてはいけないというような…一体であるという感覚が魚ではなく蟹のとき、それは一種の同調圧力のようなものだ。「お前が勝手だと俺たちが困るんだよ」と。皆が同じ方向を目指すべきであるかのごとく。

レトリーバルに対して義務感と苦しさ(謎の使命感)があったのもこれのせいだったんだ。そうではなくて、ただ一体であることを思い出すだけで良い。魚、あるいは蠍のように、とにかくくっついて溶けてしまえばいい。わたしにとってレトリーバルはそんなスタンスがきっとちょうど良い。

 

・一つ一つの行動選択が積み重なって繰り返されることでパターンが形成されていく。だから行動パターンを変えたかったら、根気よく一つ一つの選択を変えていきなさいと。

 

・アルニラムについて、「夢見るものと、夢みられたものの転倒作用」ときいて、アルニラムで生まれたってそういうことか!とびっくり。わたしにその”特質”があるのもめっちゃ腑に落ちた。

 

・何も探しに行かない。何も外側に求めない。そうしていると自然と呼吸が深くなる。もしかしたら呼吸法が苦手だったのも「順番が逆」といういつものやつだったのかもしれない。幸せなことを数えて幸せになるんじゃなくて、幸せになってからそれを数えるというように。

 

・思考をやめるということを自分に許した。それは、既に自分が完成されていること、常にすべてが完全であることを認めたということでもある。よりカンペキネスを感じる。

 

・よくオラクルで「泳ごうとせずに流れに身を委ねてください」と書いてあるけど(よく出るww)、そういうイメージをしていると、むしろ川と一体化するというのが本質だとわかる。恐怖心を捨て、一切の抵抗をやめて、受け入れる。それはやっぱり、神さまとの神聖な交わり。圧倒的な信頼。愛に包まれながら、よろこびの中に抱かれる。ひとつになること。

 

・以前「知覚者コミュニケーション」と書いたけど、そのことと「相手の中の自己イメージから手を放す」と書いたことが根本的に共通しているんだと気が付いた。相手の感じた世界の中で自分がクソみたいなやつだったとしても、それをそのまま認める。いつもそこに抵抗し否定してしまうからいけなかった。

相手の中の「クソみたいな自分」をどうにかしようと思わずに、「そんな風に見えたんだな」とまず認めること。そうすれば言い訳ではなく自然と謝罪の言葉が出てくる。。謝罪しても、自分が本当にクソであると決めてしまうことにはならない。自分の尊厳は損なわれない。ただ「相手の認識、相手の世界をありのまま受け入れている」というだけ。そのままを知る。知るために”我”は必要ない。そのままで良いから、いじる必要もない。

 

・不公平感というのは相手を認めていないときに生まれる。相手の固有の価値を知れば不平は消え去るものだ。結局争いというのはいつもエゴのプライドが原因。自分らしさへの誇りなんだ。相手と自分を区別すること。自分「は」そうじゃない、、その思いが元凶になっていく。

 

・食べるという行為にもエゴが強く出ていたと知った。次の一口をどうやっておいしく食べようか、いつも考えている(食べ物を見ている)ところがあった。そうではなく…今、口に含んでいる食べ物と意識をひとつにする。その食べ物の物語を聴く。これも知覚者コミュニケーションだ。その対象の見せてくれる世界をただ感じる。深く、知ろうとする。それが「敬意をもっていただく」ということ。

この瞬間のこの世界を愛しく想う心、それが湧き出ている人のふるまいは美しい。