アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2023年11月前半の日記 ~クオリアという単語にハマった(笑)

 

・最愛の人が、どんなわたしのことをより素敵だと思うだろうか、という発想と、最愛の人ならこんなときどうするだろうか、という発想が両面から合わさって、本質的には同じことなのだと理解した。

人に魅せる♎と自分自身である♈。ヘリオセントリック。在りたい自分になっていく。おいしいお味噌汁を作れる人になりたいなw

 

・美しくエレガントな所作だとか、「一挙手一投足に愛を込める」と言っていたことが、「愛の湧き出る選択をすること」「愛が湧きだすのを感じられるまで待つこと」とつながっていたばかりか、「何も探しに行かない。すべてはここにある」(→深い呼吸→手も温まる)、「良い意味での無関心」(思考が過去や未来にいかない、そういう思考をする気すら起きない。他人にも干渉しないし、自分のことも他人のことも何も決めつけない)というところにまで貫通していることに、感動した。

だから結果として「夢=愛を感じている人」であって、「大丈夫よ」とほほ笑むし、「ここにいたくている」ということでもあって。。圧倒的余裕。「明晰さ」「知覚者コミュニケーション」等、その都度バラバラに考えて積み重ねてきたことが、こんな形で統合されるとは!コンジャンクション

 

・ずいぶん前に、「オールOKだけど、自分はこっちの方がより良いと思うな!」という少年漫画の主人公的な在り方を理想と書いたけど、今思えばそれも「自分の外側に対して」の表明(干渉)しか想定できていなかったんだなと思った。同じことを「自分自身の在り方に対して」やっていくということが、自己受容とポジティブな成長動機、向上心との両立だ。わかっているようでわかっていなかったんだな。

 

・自分のことを裏切らない、自分の選択に自信を持つ、ということも、「愛が湧きだす選択をする」ことによって叶う。愛が湧きだすような選択をすると必然的に自分を信じられるという、結果論。

 

・愛を信じ続ける圧倒的な強さこそ浄化力の源でもあって、穢れることのない神性、恐れを焼き尽くす輝き。そういう光を自分が放っているということ。4チャクラを開いて何と同調し続ければよいのかが、少しずつだけどわかってきた。「あなたのようになりたい」と言い続けていよいよ本当に・・・

 

・この次元では一度にすべてをみることはできない、だからこそ「物語の変容」をできる面白さもある。美しい石の、美しいところを眺めながら同時に全体を感じるようなこと。欠損を見ずに(というか欠損と感じずに)きれいな面を祝福し、そのものをまるごと「良きもの」と名付ける=語る。目から取り込んだ2次元映像をもとに脳が3次元空間を作り上げ感じ取るがごとく。次元をひとつ下げるというのはある種の楽しみで、「時の流れ」もそうだ。無時間の静かな海、種子から展開していく。

 

・すべてはクオリアだということでつながった。感じ方が変われば世界が変わる。現実が変わる。物語は変容する。

 

・「今ここの印象を拾う」といったときの印象こそQuale。「感じようとするのではなく感じている意識の存在を知る」ということは、また例え話をするのなら、列車に乗っていて景色を見よう見ようと身を乗り出すのではなく、列車に乗っていることを知ること。しばらく景色を見ているとそうやって流れていくのが当たり前のように思い始めてしまう。列車に乗っているのだということを思い出す。I'm here。どの景色も全体のほんの一部であって、一瞬で過ぎ去っていく。

 

・悪夢すらヒントになり、わたしがしきりに言ってきた「のめりこみ感」はもしかしたら実は単に「恐怖」によって引き起こされる(あるいは強まる)のではないかと。だとすると反対に、「愛」の感覚はその「のめりこみ感」を薄めていく。だから「あなたを近くに感じる」ということにもなる。「知っている」の感覚もそう。

 

伝統芸能が間延びして退屈である理由はそもそも退屈によってトランス状態を作るため(内容は二の次)という話があった。瞑想も言い方によっては究極の退屈だし。恐怖と愛、と呼んだらどちらかが良くてどちらかが悪いような感じがしてしまうけど、そうではなくてただの力の働きの方向性でしかないのだと思った。好奇心・色彩・刺激は恐怖と紙一重で、のめりこませていく力、次元を引き下げていく力。そこから源に戻るための力が愛である。この両者に均衡点をとる存在(のひとつ)が人間(地球人)ということ。(シュタイナーが言いたかったのはこういうこと?)

 

・のめりこんでいるときには、展開が明らかに意味不明でも意味不明だと気づかない。自動思考は「落丁」であり「支流」と書いたけど、月の夢はまさにその映像化、没入体験という感じだ。フォーカス23もそういうことか。本人的には(同次元レベルでは)何の疑いもなく前後関係があって、ドラマを生きているつもりになっている。

 

・フラワーエッセンスが1滴でも効果があるならばコーヒーの1滴でも、と書いたけど、それと同じで、これほどフラワーエッセンスが人の思考パターンや感情的反応の在り方を変えるのなら、日々摂りつづける食事がどういうものかによってもその人の考え方や反射が変わってしまうんだと気が付いた。。

たまたま見た対談で、「人は環境が作る」という話をきいたのもシンクロというか、納得。やっぱり人は花。その姿がどうなるかは、種の問題だけではない。この人はダメだと、人を切り捨てるのもどうかと考え方が変わってきた。かといって「救う」とかいう干渉は違うけど。どうしても無意識にずっとあった、人を見下す傾向(自分を特別視する傾向)にメスが入った感じ。

 

・「カンペキネス」と書いてきたことは、クオリアを完全な状態として感じることかもしれない。すべてが完全だ!というクオリアを抱く、ということ。

 

クオリアを通した物語の変容の代表例が、あの「黒に対する特異的転倒」、つまり笑いとユーモアなのだと気づいた!

 

・正体不明の飢餓感について、それにまともに取り合って「満たされに行こう」とするのをやめる。「何も探しに行かない」「すべてはここにある」「愛が湧きだすのを待つ」。そのうえで選択する。長年の行動パターン、思考パターンを根気よく変えていく。

 

・愛が湧きだすまで待ってから選択するようにすると、すべての選択はOKであるとわかる。「選ぶということは、自分のまとっている周波数とその選択が親和性があるということ」ときいてさらに納得。なおのこと、愛をもって選択していくことの重要性を認識させられる。

 

・妊娠しているような覚悟をもって生活するのはどうか?と思いついた。「神さまをお乗せしている」というのにもつながるし、日々摂りこむものや口にする言葉に、より意識的になる。メタトロンで表示されるくらいに常によろこびや愛、高揚感を感じていたいな。もっともっと、毎瞬間!子供は楽しい遊びや幸せな甘えに飽きることなどないのだから。パルスを増やせ!!

 

・目にするもの、耳にするもの、口にするものといった、摂りこむ周波数に意識的になることは、裏を返せば自分のなりたい周波数に合うように選択していく、結果的に環境もそのように整っていくということなんだとわかった。(綺麗な部屋のような人になりたいから部屋を綺麗にする、というような意味。)いろいろなことが実感として理解できるようになってきた。この意味でもやっぱり、世界は意識の反映であり、わたし=あなたなんだと。

 

・経済力、生活基盤を支える「父」、日々の生活、食事、自らを養い育てる「母」、そのどちらかではなくどちらも身につける。委託しない。前者はこれまで書き連ねてきた「土星」だとして、後者はもしかしたら「木星」に関連するのかもしれない。カペラの活性化によってはじめて木星が眠りから覚めて、ズベンエルゲヌビを理解できるようになったのかもしれない。木金コンジャンクションの新生。

 

・近づきたい理想の姿にまだ何かが足りないと考えたとき、「女王さま」に偏りすぎているとわかった。そして、加えようとしていたやわらかさ、明るさ、親しみやすさ、華やかさ、陽気さが、実は火星かに座の理想の姿なのだとわかって驚いた!!

ずっと書き続けてきたことがすべてつながる・・・つまりわたしは今、男性性と女性性のそれぞれを100%開花させたうえで、両者を統合しひとつの人格の中でバランスをとって体現しようとしているんだ。しかもそのことは、フラクタルにわたしの身体でも起きている。わざわざ先天的な側弯症なのは何のためか?右半身と左半身が愛し合い完全な調和を実現するためだ。

 

・好奇心に目を輝かせて、肩の力を抜いた気楽さで、愉快なことを好む。愛が湧きだすのを待つことができるようになったら、今度はその湧き出した愛を表現する。与える。語る。さえずる。相手を幸せにできると確信している。手を差し伸べてもらえるような、愛される貴公子だ。目の前の相手を完璧なものとして語り、名づけ、祝福する博愛の人。

 

・相手を幸せにできると知っている、と書いたけど、これと同時に「相手が完全に自由であることも知っている」。そのことは実は♎が「個人に尊厳があることを当然のように知っている」というところにつながっている・・・!

 

・さそり座のことを単体で考えても限界があり、前後のおとめ・てんびんを取り入れるうちにいつのまにか思い描いた(女性)像が出来上がった。それと同じで、かに座も単体で見ても限界があったんだ。とはいえ、獅子も双子もこれまでバラバラに考えていた。いよいよそうではなかったと気づいた。

ずっとやりたかった、さみしいメロディーも光に包んで明るく歌い上げるような、水を火にかけるようなそれは、わたしの理想の「男性性」だったんだ!さそりの重みや深刻さを笑わせ、リラックスさせる。愛を投げかける方法も、淡く光るパールのような白い光のヴェールを何層も重ねていく方法だったけど、今思うとそれもいかにも蟹らしい。理想の男性性の体現者を外側に求めてしまっていたけどそうではなかった、わたしが内側に見出して表現することではじめて、わたしの中で陰陽のバランスが取れる。納得いく美しさを表現できる。火星と金星の均衡の中で太陽が輝く。

 

・感動と好奇心は本来一体であるときいて、なるほど。火星の「抱きたい」という想い、情熱で、参入していく。以前「魂をかかわらせる」と書いたのがつながる。「与える」ことの理想の形が、美しいカンペキネスの歌を紡ぎ、美味しい紅茶を淹れるようなことなんだ。大前提に愛がある。

 

・誠実な人になりたいと言っていたら預言カフェでそのヒントをいただいて感動した。ハウス6ステリウムはそうやって活かすということなのか!忠実さ、こまやかさ。

 

・恒星パランで火星のメンカルやアルファードを厄介だなと感じてしまっていたけど、これはもしかしたらあの逆エンパスの話に似て、自身がその集合意識に巻き込まれることなしに、意識的にそこに働きかけていく、良い影響を与えていくことさえできるということかもしれないと思い直した。思っているよりもわたしは無力ではないのかもしれない。

 

・男性性女性性の統合なのだと気が付く前は「オクターブ上の姉妹統合」と書いていて、そのときにはうっすらと、姉はさそり座、妹はかに座と想定していたけど、それがどういうことだったのかわかった。月が女性性を無理に担おうとした結果、本来の女性性の方が男性性を担うことになって、歪み反転していたんだ。

 

・火星かに座の実践では重大な注意点があって・・・一歩間違えるとすぐに月に落ちるということ。月が境界線を引こう引こうとしてもダメだったり、感じよう感じようとすると泥沼にはまっていたように、与えよう与えようとするのも例の「ドライヤー」になる。というか、ドライヤーは月の仕業だったのではとすら。。結局不安がベースにあって、「よろこんでくれただろうか?」と相手の顔色(結果)ばかりを気にしてしまう。見かけ上は同じことをしているので自分でも気づきにくい。

やっぱり、一旦は「わたしは何も感じられないし、境界線も引けないし、何も与えられない」と思うくらいでちょうど良いような気がする。感情的なところが共振できなくても理解する力はあるし、境界線が引けなくてもわたし自身に強い浄化力が備わっているから大丈夫だし、何も直接与えられなくても祝福の魔法をかけて幸せを祈り間接的に与えるということはできる。

月を火星が取り込んだということは、火星が欠損を持つことを火星自身が許したという見方もできる。ふつうの火星らしい働きができなくても、自分はそれでよいのだ、と。

 

・とにかく「湧き出た愛を、表す」だけ。その表す方法は、相手に伝えよう伝えようとする(ハウス3)のではなくて、あくまでも神さまに語る。目の前の人やもの、出来事のすばらしさ、美しさ、愉快さを、常に開けている心の窓を通して、あるいは受話器を通して、描写する。以前書いたショコラティエの話。カカオの香りがあまりに素晴らしいのでショコラをつくる、そういう表現、人為、Man、♂ということ。ただそうしたくて、突き動かされてそうするということ。だからもし、何も湧き出ていないのなら、何もしなくていい(笑)

 

・わたし自身が浄化力のあるパワーストーンのようなもの。表面の汚れをとれば本来の力を取り戻す。クラックもインクルージョンも美しさを生み出す、神さまからのギフト。

 

・わたしはこの星が美しい蝶に羽化していくことを知っているし、少なくともそう願っている。同じように、わたしはこの人生でそれを表現したいし、この瞬間にも感じたいし、この体の中でもそうあるように描いていきたい。