アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年6月の日記 ~エゴは空虚を恐れる話。のめりこみ感への抵抗。

 

・意識を至福に近づけていくとき、その最中はどんどん空虚感が強まっていくのでエゴの抵抗に遭う。恐怖がピークに達する。お前はわざわざ空虚になりに行くのか?とエゴがささやく。だけど空虚は、ほんのわずかに至福からずれているだけなんだ。ピントが完全に合ったそのときに、すべてがその瞬間のために存在するようになる。

 

・エゴが空虚を恐れて悩みたがるのと、自分の在り方に対して否定から入る(干渉する)のは同じことだ。「何か欠けているはずだ」「もっとやるべきことがあるはずだ」とキリを手に心に傷をつけようとする。至福から離れようとしているのだと自覚するべき。

 

・どうしたら社会で生きていく自分の力に自信を持てるようになるのか考えたとき、「プロセスを楽しめたという経験」だけがものをいうのだと気づいた。どこまでできるようになったら胸を張れるのかという線引きがなければ何をいくらやったって変わらない。内容以上に「自分はやればできた」ということが真の自信につながっていく。そう考えてみると、今まで悩んできたことは見当違いで、どんなところでもその時にその場で自分の力で生きていくという力というのは、何かのスキルや職歴関係なく、ただの人間としての力だけだとわかる。

 

・昔から「最近何してるの?」ときかれるのが嫌いだった。What do you do? という質問で職業を答えるのも嫌悪感があった。器だけ見て中身の水の味がわかるわけないのに。肩書なんてどうでもいいんだよ。

学歴逆コンプレックスがあったことを改めて認識して、学歴なんて背中にホクロがあるかどうかみたいに言っても言わなくてもどうでもいいことだと悟った。これまで学歴のせいで態度を変えられたことがトラウマになっていたけど、そういう人は背中のホクロの有無で人としての接し方を変えるヤバい人だから最初から相手にしなくてよかった。わかる人には私を見るだけで(少し話すだけで)この人頭良いな(普通じゃないな)とわかるし、それ以上は答え合わせでしかない。

 

・肉体が借り物なのと同じように、エーテルもアストラルもある時期の特定の目的に合わせた器でしかない。この器を通すから限局されるだけで、わたしは肉体を超える存在どころかアストラルを超える存在だ。

 

・人生を長い旅に例えるなら、過去の聖人たちの言葉や霊的修行の方法は一種の旅行雑誌、ガイドブックだ。自分の足で行き、自分の目で見ることが大事で、体験するためにそれぞれの人生がある。自分もそこに行ってから旅行記を読んでみれば「あそこのことか」とあとからわかるようなものだ。既に知っている人にしか、パッケージ化された情報を復元することはできない。その意味でも最近は言語の限界を感じやすい。

 

・先生に何度もいろんな言い方で「リラックスしろ」と言われていたけど、リラックスすることは筋肉を緩めること、つまり「遠くを見る」ことだと気づいた!目の前のことに一喜一憂したり焦ったりするのはリラックスの反対なんだ。「プロセスに対する信頼」というのも同じことだし、いろんな表現をしてみているだけだけど、そうすることでいつのまにかきれいに磨かれているような感じがして嬉しい。

 

・自分が恐怖しているのは失敗すること以上に「のめりこむこと」なのだとわかった。社会や対人関係に抵抗があるのも、それによって傷つくとか以上に、その人たちの意識レベルに同調することになるのが嫌だったんだ。グラウンディングしなきゃと言いつつ、グラウンディングしないことを最も望んできていたんだと気づいた。海外に行きたいとかも、海外に行く手続き考えただけで嫌になってたけど、それはそういう手続きに振り回される「のめりこみ感」が怖いということだったんだ。

 

・明晰な感覚、集中力を維持できない原因は霊的なエネルギーを現実に落とし込むという意味でのグラウンディングが不十分だからだった。価値ある活動へ方向づけること、パイプにエネルギーを流すこと。考えてみれば当然・・・毎瞬間意図する=創造することが明晰夢のような意識なんだから。「こういう夢にしよう」というのが薄れるとすぐにまた夢に飲み込まれてしまう。

 

・ブログも「理解される」「活用される」ことに主眼を置いていたせいで、そのためには対象の水準に合わせることになり、意識のレベルが下がってしまうと思っていた。だけど何かを発信する、伝えるという行為そのものがエネルギーを地に流すことであり、自分自身にとってありがたいことなんだと気づいた。他人の意識レベルに同調する必要なんてなかった。地にギフトを贈ることそれ自体によろこびがあって、ギフトの対象者や使途をわたしが限定するべきではない。

 

・最近の人たちはスマホ一つあればどうとでもなるという「自信」があるけど、「身一つでなんとかなる」という感覚は、どこででもコンビニおにぎりが買えて、24時間雨風をしのぐ場がいくらでもあるからこそ。社会インフラ、文明に依存しているだけで、ミニマリストってただのパラサイトだ。とはいえ人間は特定の条件下でしか生きられないし、完全に一人で生きるのは不可能。やっぱり「構成員」としての自覚、わきまえがあるかどうかが重要なんだなと思った。

 

・久しぶりに感覚のすごくはっきりした夢をみて、なおかつ夢だと気づかず・・・境界のなさを再認識。「この人」にとっては今見えている世界が当然で、疑問を抱く余地がない、夢の中と同じように。