アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年4月の日記 ~他人の傷が怖いということ、愛情表現もアートということ

 

・「食べることは愛されること」と書いてきたけど、実際「命をいただく」という意味で罪悪感の原点とも結びついていた。愛されることが怖いと食べることも苦手になる。自分なんかが生きるために申し訳ない、消えたいと。生きることは食べ続けること、信じ続けること。

 

・罪悪感はひたすら愛を阻害するものだと考えてきたけど、「良心の呵責」という観点で見ると、自分を愛せるような選択をするためのひとつの道しるべになるんだなと思った。

 

・人に対する愛情表現も一種の「アート」だ。感じたまま表現する。よろこび、賛美し、祝福する。受け入れて喜ぶことが、そのまま与えることになる。そういう喜び方は、与えてくれる相手をけっして惨めな気持ちにさせない。想いを愛し、行為をほめたたえる。

 

・いつもと変わらない夜も、心ひとつで特別な非日常の高揚感に変わる。明晰夢はどんな場面であっても夢と認知した瞬間からあらゆるものが楽しくなるけど、現実も同じ。わたしがうれしいと神様もうれしい。すべてがギフト。

 

・自分で自分を養う、自分に責任を負う、自立こそわたしにとって最大の恐怖との対峙。

 

・意識に時の流れは存在しないけど、カルマをどこまで浄化したかというような別の流れはあるかもしれない。デジャヴはループしているからかもしれない。soul としては初めてでも、spirit は何度もこの人生をやってみているのかもしれない・・・。

 

・生きることに疲れたとき、最大の薬は生きることだ。より大きな視点を持つと、細胞分裂を見ているみたいに、すべてが美しいプロセスの一部。

 

・私が「尊重」という言葉を使うとき、「うんうん君の言うことはわかるよ。でもね・・・」という、相手を変えてやろうという介入の気持ちがあることがわかった。やめよう。一人の人間も国と同じ、内政干渉は厳禁。

 

・私は他人の傷が怖い。だから「なんとかしよう」としていた。本人の治癒力を信じて、傷の痛みに一緒にありのまま向き合うことができていなかった。人の話を聞くのは向いていると思っていたけど逆だった。

介入型の西洋医学と自然の治癒力を引き出して委ねる代替療法も同じ構図。西洋医学は恐怖を根底に発達してきたことがわかる。ありのままの傷を見るのが怖いから、「あるべき状態」というのを一律に定めてそこに固定させるという暴力的行為に走る。観光栽培と自然栽培も同じ。

 

・極限までリラックスするのが大事だ。霊界探索もレトリーバルも、結果を求めたら得られない。できると知ること。できたときの感覚を再現しようと焦るのをやめ、信じて手放すこと。待つ。

 

・プロセスを楽しむことは、結果にこだわらないという以上に、上手くいくと「知っている」という状態だと気づいた。楽しく料理をするときは美味しくできると確信しているし、それでもし最後に失敗しても多分許せる。逆にしんどいのに結果のためだけに作ると評判が良くないときキレる(笑)。プロセスを楽しむことは自分のために行為をすることでもある。楽しめない表現行為は潔くやめようと思った。

これは生きることそのものにも当てはまる。人生に働く大いなる力を信じているとき、生きること自体がよろこびに満ちている。上手くいくと「知っている」。

 

・「今も夢をみているのかも」と思考することと、「今は夢の中である」と感覚で知ることは全く違っていて、前者の思考の癖がついても、夢の中でも同じように”思う”だけで明晰夢にならない。思考ではなく感覚に集中するのが大事。

 

・「安全の保障されたフィールドの中での自由な散策」っていいなって思ってたけど「大きな鳥かご」と一緒じゃん。結局安全であることはシェルター=土星で、安全を保障するには責任が伴う(やはり土星)。野生は何の保障もなく常に危険と隣り合わせで、だからこそ真の自由の喜びがある。せめて自分のシェルターは自分が責任を持って作ろう。土星を外部委託するのではなく、自分のものにする。

 

・幸せであると認めるのは怖いことだ。ただそこに「ある」とき、自分は永遠だと知ることになる。脳内を思考で満たし、何かで悩まずにはいられないとき、実は悟りがすぐそこにあると気づいた。すぐそこにあって怖いから逃げようとしているんだ。