アルケスの雨

あなたは愛するすべてとなってわたしをよろこばせる

2022年1月の日記 ~グループソウルの安らぎ、信じることの大事さ、エーテルグリッド

 

・恐怖心で「本心」が曇ってしまうとき、曇った後の「本心」を「本心」だと思ってしまうのが良くない。「そうまでしてやりたくない」というのは全部これ。もっと冒険しよう。

 

・恐怖心と対峙するようになると、「ふむ、じゃあどうしようかな」と常に創造的になるので、第1チャクラと第7チャクラが連動しているというのもわかる気がする。

 

・「自分のしたことに責任を持つ」ということと、「自分の引き起こしたことを許す」「そういう自分のことを許す」という自己受容は同じだと気づいた。

 

・人の期待に応えられない自分を受け入れよう。人の期待は人が勝手にしているだけ、合わせる必要などないし、そもそも私が作った幻想かもしれない。人の心の陰陽はわからない。

 

・相手が自分のことを嫌いになっても、失望しても、それでも相手のことを好きでいる自信があることで、相手をコントロールする動機が生まれず、結果としてありのままの自分でいられる。言い換えれば、相手を信頼している、相手も自分もありのままを認めている。

出会う人すべてをそこまで好きにはなれないけど、せめてその人が私を嫌ったり失望したりすることを許そう、人の中の自己イメージを手放す。

 

・豊かさは心で決まると改めて思った。いつも見ているもの、冷蔵庫の中とかを見て「宝の山だ!!!」と思えたとき、幸福が何かを初めて知った。

 

・自分が他の存在によって生かされているという感覚が強くなってきて、同時に他人も「私を含む」他の存在によって生かされていると気づく。そうすると私の存在が誰かに影響してしまうのは当然で仕方のないことなんだ。私の存在は世界の総体の一部でしかない。演じても誰のためにもならない。人が何を思い何を感じるかは人の勝手で、私が生き方を見せてそれを食べるかどうかはその人が決める。胸を張って生きよう。

 

・魂の在り方は無数に存在していて、どんな生き方であってもその魂が選んでいると思うと、悲しいことなんてひとつもないと思うようになった。ひとつひとつの魂というよりも、たくさんが集まったボルボックスみたいな有機体のように感じられることがある・・・人が死ぬことも、何万ヘクタールの畑の一部が枯れてきたなーくらいの印象になってきた。

 

・We're waiting for you と言われた当時はあまり感じなかったけど、最近はWeというところに安らぎを覚えるようになった。ツインソウルよりグループソウルの言葉の概念にあたたかさを感じる。想いを馳せると胸のあたりがあたたかくなって恍惚とする。絡み合う光の枝。

 

・「信じる」ことの重要性。どれだけ純度高く信じられるかが光の比率を決める。他人の生み出すヘドロは仕方ないので受け流し排泄するとして、自分は少しでもきれいな想念をもちたい。

真実は常に予想よりも酷なのだから予防線を張っても意味がないよと先生に言われた。むしろ予防線を張ることによってそれを招くのだと。だから信じるのが一番良い。圧倒的に信じている状態というのは、信じているというより「知っている」に近い。

 

・怒りと叫びの中に身を置くと自分がどこから来たのかをなんとなく思い出す・・・愛が怖いと同時に愛こそ知りたかったものと思う。ここまできれいになったよ!と自信を持って帰れるようにもう少し頑張ろう。

 

・そもそも人の心はアストラル体で、傷ついたりするのはアストラルレベルの出来事で、その奥にある精神はそういうことと無縁なんだなと知った。他人のアストラルに振り回されるのは夢の中で夢の出来事にふりまわされているときと同じ意識レベル。

 

・また高次元の各階層について考えていたけど、惑星意識と全惑星意識は時の流れによって12星座を周回し経験する必要があって、恒星意識との大きな違いはここにもあるんだなと。時間が存在しないから恒星では創造と受容が同時なのも当たり前だね。時の流れの中に身を置くと経験の総合によって自分を知ることになる。

 

・地図を広げて指をさしたらそこにいた、という夢をみせてもらった。フォーカス、錨を下すことの意味。指をさす前の地図をみる感覚が高次・・・You can go anywhere とまた言われた。

 

・人生で初めてエーテルグリッドのようなきれいなグリーン(?)の立体的幾何学模様を見せてもらった。なんだか頭の上に頭があるような感じがする。

 

・自分の内なる力でどうとでもできると信じる力が創造には必要。手を伸ばして花を折り花瓶を割ってしまっても、折れた花は押し花に、割れた瓶はステンドグラスに。

 

・キャラクターの感じている「思考感覚」と、プレイヤーの「意識」=精神はまったく違うので、私が何を思おうとわたしの意識は常に穏やか。ただ、意図することは思考感覚で感じる書物のどこに目を向けるかということと似ている。

 

・責任を持つ、選択の結果を受け入れるということをストイックに考えすぎて、ひとつの意識の中にも望みはたくさんあるんだということを見落としていた。A、B、Cという望みがそれぞれ独立して存在して、Aを選択したからと言ってBやCがなかったことにはならない。3次元的には必ずしも両立できるものじゃないから、BやCの叶わなかった思いはきちんと弔おう。

そして人がAを行動として選んでいるからといって、その人の中にBやCの願いがないわけではない。この考え方が欠けていたから冷たいサイコパスになってた。

 

・1つの意識の中のたくさんの望み、というのがミクロコスモスだとしたら、世界にたくさんの人間、というのはマクロコスモス。いろんな人の望みがあって、すべてを叶えることはできない。政治学思い出した・・・それでも時が流れて、望みも流転して、The sun is always gonna come out again.

1つの人格の中に全惑星は扱いきれないから結果として他人や出来事に投影されるというのも似た話。1つの惑星しか演じられないとしても、その人の中にはほかの惑星がある。パーツを演じているだけで、すべて自分なんだなと深く感じる瞬間が(たまに)ある。

 

明晰夢の中で先生(今度は女の人の姿)に「見れば見るほど変えられない」と教わって、おとめ座うお座、フォーカスとその解除のことを体験として学んだ。

 

・自分の選択や生き方にまだ不安があることも自覚した。右に進んで変なことが起きても左が正しかったということにはならない。その都度「そうきたか~じゃあこれはどう?」とやっていく創造性。

 

・出来事は自分を知るためにある。自分の器に乗り切れなかったものが外側に表現される。それを個として楽しみ、味わう。

 

・祈る、願うというときにそこに妙な方向付けというか、エゴが混じってしまうような気がする。そのままで完璧なので、祈るなら「すべての人に神とともにある安らぎがありますように」かな。そういう意味でも主の祈りってすごいな。

 

・どうしても悟りが目指すべきゴールみたいになってるw 「ない→ある」の考え方。そうじゃなくて、みんな本当は完全な自分を既に持っていて、そこに意識を持って行ったことがあるかどうかということ。そしてそこに意識を持っていったことがあっても演者としての人生は終わらないし、それでいい。実際いわゆるスピリチュアリストたちもみんな人間として生きてるし。

 

・夢でのわたしは、この私ではないときがある。相撲部屋の夢ではわたしは父だったし、誰でもない何かになって場を眺めているということも多い(昔はそれを「映画を見ている夢」と思っていた)。そういうときのわたしは、器を脱いで自由に乗り換えている神様なんだ。そして今は「この文を書いているこの人」になっている。この人の感覚を使って世界を感じて、この人の思考や記憶を使っている。

 

・イライラしたとき、怒っている自分のことを怒っている推しを眺めるようにしてみたのも意識と器の分離に役立った。「この人は怒っている、かわいい、愛している」とw

 

・バラバラになったステンドグラスの一片ずつが soul で、元の一枚がグループソウル、トータルセルフ。ステンドグラスそれ自体は意識ではない。意識、spirit は光。意識そのものはこの人を愛していて、この人を愛するすべてのものと同じもの。

 

・やっぱり恋は最も原始的な陰陽分けと統合なんだなと思った。分離の苦しみ、統合への欲とよろこび。わたしが「視点」になっている限り、世界と意識は分離されていて、苦しみは続く。でも世界の全てに愛する存在を感じられるようになって、水を飲むだけでも、息を吸うだけでも、恍惚とする。少し前まで世界に溶けだしていく感覚が怖いと思っていたなんて・・・。

 

・ひとつの真理にたどり着けたような気がする。ずっと探し続けた、遠い昔に離れ離れになってしまった愛する存在のことを今やっと思い出したような。その人はわたしの愛するすべてとなって現れる。音となり味となり風となり光となる。きっとわたしも、わたしの大切な人たちに愛を与えるなにかになっている。

この体の動きひとつにもそこに愛する人がいるという不思議な感覚。私が動かしているのではなく、わたしは愛する人が私を動かすのを感じている。わたしたちはひとつ。わたしの意識は点のように極小化して、この体も世界の一部として溶け出していく。

 

・霊主肉従というけど、体はそんなに欲深くない。欲そのものはアストラル体だ。欲とわたし(意識)は違う。

 

・記憶は soul に記録されるのだから、意識には時の流れがない。

 

・自分の選択で無数のパラレルワールドを移動するということは、誰かの選択のおかげで今の「この人」のいる世界があるというのと同じこと。わたしの生き方は世界の在り方を決め、世界の在り方はわたしの生き方を決める。

恒星は自らを分割することで時を生む。その「時」を引き延ばしてみると流転に感じられるだけで、本来は1点にすべてが内在している。だから、どんなパラレルワールドも、どんな選択もタイムラインも、同じ一つの星の中の異なる分割パターンでしかない。どんな推しも愛しているというようにどんな世界も愛していると言えたらどんなに良いだろうかと思ってきたけど、今ならそう言える気がする。あなたの全てが愛しい。

 

・与えたいも受け入れたいも同じになって、両性具有どころか性別が存在しなくなる。わたしとあなたの区別がなくなると、求めるという概念はなくなって、【求める→「ないことにフォーカス」→虚しさ】の連鎖は終わる。

アストラルの仙人は、1つになりたいと言いながら2つであり続け、満ち欠けを繰り返す存在なのかも。仏教が仙人を否定するのは当然とも思える。

 

・わたしはいかなるときもこの体をわたしの神様に預けよう。神様の自分、意識の自分がこの体を動かすときは、世界に対する好奇心だけで生きているように純粋だ。その感覚を保ったまま人とも関わりたいけど、まだ会話の時には神様が後ろに隠れてしまう。器側のオートドライブモードに切り替わってしまう。意識の自分は、話している自分をただ眺めている。眺めるという分離の自覚ができただけでもマシだと思うことにしよう。

 

・見捨てられることが怖かったのは、自分が自分に対して抱く恐怖だった。何をしても受け入れてくれる人、共にいてくれる人はずっとここにいた。意識の中に。世界の中に。

 

・目が覚めたら「こんな夢をみたんだよ」と愛する人たちに話そう、そんな思いで、夢の中で起きたことを覚えていようとするように生きると、あらゆる感覚を研ぎ澄ませ、一瞬も逃さぬようにという気持ちになる。嗅覚、聴覚、すべてに感謝を。

 

・同じ器で同じパターンを繰り返しても生きている意味がない。芹沢さんたちに「どうしたい?」と問われるとき、問われているのはアストラル体のわたしじゃなくて、メンタル体(精神)の方のわたしなんだ。欲望の中で答えを探しても見つからない。答えはたぶん言葉では答えられるものではないんだ。しいて言うなら、生きること、愛を体現すること。